聖火といえば走り継ぐものだとばかり思っていたのだけれど、当地でも市の中心地を100メートルばかりずつ受け渡しながらのイベントだったようである。田畑政治の時代はだいぶ遠い。次の日には車で隣県に移動という段取りで、ベルリン大会から始まったという聖火リレーがそもそも国威掲揚を目的としていたとして批判される文脈に比べると凄みに欠け、のべ46日間、2万6,000キロの道のりを10万人が繋いだという1964年の東京オリンピックに比べると茶番としか思えず、なぜコロナ禍での実施にこだわっているのかと考えれば、スポンサー料の徴収や業者に金を落とすためというあたりの理由しか思い浮かばない。1984年のロサンゼルスオリンピックも商業主義と批判されたが、税金は使われなかったことを考えると、何もかも中間搾取のために構成されている本邦のありさまには、よりディストピア感が強い。恥ずべきである。