何だかんだといいつつ、結局のところまずは読んでみないと始まらないというわけで『蜘蛛の巣を払う女』を読み始めている。『ミレニアム』世界の時間軸上の位置づけとか、そうはいっても10年後の続編である以上、気になる点はあるにして、邦訳で読むかぎりあまり違和感を感じないのも事実。「女を憎む男達」というモチーフも入っているし、基本的によく書けているのである。
訳出は相変わらず二人体制だけれどヘレンハルメ美穂が入っていることは一貫していて、翻訳におけるオリジナリティの所在を考える上でも興味深い。そもそも我々は何をもって作品の書き手を同定しているのか。
本
世界の終わりの七日間(読了)
『世界の終わりの七日間』を最後まで。タイトルそのまま、世界の終わりを目前に控え、しかし物語は小さな町の警察署を主な舞台にして地理的な展開はほとんどないのだけれど、小惑星衝突が地殻津波を引き起こす破局のイメージは影のように背後にあり、三部作の最終巻に至るこれまでの積み重ねは話に奥行きを加えていている。事件の真相は地上に現出した地獄のモチーフとともに明らかになり、その対照として何がしか救いのイメージのあるエピローグは心に残る。なかなかに考え抜かれた構造なのである。
忠実な犬のフーディニが満身創痍という状態にもかかわらず、主人公と過酷な旅を続けているのが痛々しく、世界が滅びることよりもそれが気鬱であったのだけれど、物語の途中で安息の地を得たことが嬉しくてそれだけでも随分と評価は上がった。
世界の終わりの七日間
『世界の終わりの七日間』を読む。『地上最後の刑事』から始まるトリロジーの三作目で、元刑事の彷徨も最終局面。小惑星の衝突まであと一週間という時間帯で、世間も殺伐を通り越して静まり返った感じで物語は始まる。
『カウントダウン・シティ』と同じく、プロローグは心の均衡を崩した女との対話から始まるのだけれど、名前が思い出せないという焦燥とともに語られるにもかかわらず、地の文にあらかじめその女の名前が出てきて、これはあややという感じ。原典ではちゃんとsheとなっているので、訳出の間違いではあるのだけれど結構、珍しい誤植ではあるまいか。
街道をゆく
司馬遼太郎の『街道をゆく』は実家にいたときに何冊か読んでいるはずだけれど、もちろんキレイさっぱり忘れていて、残っているのは司馬遼太郎の独特な語り口のみである。このたびKindleで買い求めて「湖西のみち」から読み直しているのだけれど、時空を自在に往還する語り口によって見通しは遥か地平まで至るようであり、これを「カシミール3D」で地形を確認しながら読む体験は至高。
The Indifference Engine
伊藤計劃が亡くなってからの出版物はあまり注意を払っていなかったので今頃『The Indifference Engine』を読んだのだけれど、わけても『From the Nothing, with Love』の凝った構造には唸る。
歴史散歩辞典
大学入試の日本史なら「山川の詳説」をやっておけば十分というのが当時、斯界の常識というもので、実際のところこれを以って手に負えない問題というものには出会ったことがなかったわけである。このたび、同じ山川出版社の『図説 歴史散歩辞典』を買い求めて、中身の充実ぶりにそのことを思い出したのである。調べようにもなかなか手の出ない歴史建築のディテールを網羅的に知るには最適の一冊ではあるまいか。初版は1979年で、活字もモノクロの写真も古風ではあるけれど、それがかえって雰囲気を醸しておりなかなかいい感じ。
ミレニアム続編
スティーグ=ラーソンの『ミレニアム』三部作の他者による続編が売れているというので、その『The Girl in the Spider’s Web』を買おうかと悩んでいる。というのも、作品の大ヒットを見ずして亡くなった作者が第4作の素稿を残していたものの、正式な婚姻関係がなかったために遺産相続から締め出されたパートナーと遺族の間でこれを巡って揉め事が起きているという話を読んだことがあったからである。己が小市民的正義感は作品の体となっていないドラフトの出版に反対していた元パートナーの判断に傾いているからして。
Wikiを読んだところでは、今回の続編というのはそのあたりとは無関係なものらしいけれど、いずれ(強欲という印象のある)版権継承者が絡んでいないはずはなく、”exaggerated and cartoonish features of the series”という評も、さもありなんというわけでどうしたものか。