リヴァイアサン

『自由の命運』を読んでいると、国家と社会のせめぎ合いが作る、ごく狭い回廊に位置する社会だけが自由の果実を享受することができるという枠組みに首肯することも度々だが、実に豊富に挙げられた失敗国家の事例は、ひょっとすると日本がそうであるかもしれない状況をよく説明する。そして政治の様子をみるにつけ、専横と不在の悪い側面を両取りして、国家のふりをした何ものかに転落しつつあるということではなかろうか。

結局のところその凋落は占領統治の終了に端を発し、統治者の影が薄れるにつれ張り子の国家の実際が露出したに過ぎないということであれば、南米やアフリカの苦境とさして変わらず、何より経済成長が存在しないという事実がこれに符合して心胆を寒からしめる。これはまぁ、そういうことである。

自由の命運

アセモグルとロビンソンの『自由の命運』を読んでいる。経済発展が民主主義と自由をもたらすわけではないという当たり前の話を、しかし腹落ちさせるのは案外、難しいと思うのだけれど、こうした単純化され過ぎた近代化の理解を念を入れて打ち壊してく。古代から現代までの実例をひきつつ、しかしシステムとしての本質を抽象化して理解させてくれるので、読者は必然的に自国の状況に照らして考えることになる。その点において、非常に有益な思考をもたらす好著であるに違いない。

特に安倍政権以降の日本いついて言えば、構造としてはシュワルナゼのグルジアの例にすっかり当てはまるということではなかろうか。腐敗構造の維持のために全てを腐らせるという政治は案外、ありきたりのもので、駄目になる様子もよく似ている。

球状閃電

『死神永生』を読んでいるときから、『地球往事』三部作を読み直さなければならないと考えてはいたのだけれど、そのボリュームの前に果たせずいるうち『三体0 球状閃電』を読む。『三体』の前日譚という触れ込みで葉文潔の娘、楊冬の恋人 丁儀が登場してボールライトニング現象の謎を解明する。

もちろん、続く『三体』ほどのスケールの大きさはないとして、物理理論そのものを題材とする劉慈欣の語り口は後と同じくスリリングで非常に面白い。三部作とあまり関係ない話のように見えて、観測者問題をこのように扱うだけで三体世界そのものを現出する作家の力量は並外れている。

おとなりに銀河

NHKのドラマとアニメが並行してオンエアされている『おとなりに銀河』を、しかし原作の漫画で読んいる。予想以上に甘ったるいのだが、あらかじめ大人買いしてしまったので、読み通す予定。Amazonあたりでは、既刊巻数を指して「全5巻」とあるのだが、しっかり続いているというのが最近の常識で、かつて全5巻といえば5巻で完結している作品を指したはずなのである。

街とその不確かな壁

正直言うと『騎士団長殺し』は積読の状態で、地層の下に埋もれた状態なので読了の目処も立っていないのだけれど、村上春樹の新刊『街とその不確かな壁』はいそいそとこれを買い求める。久しぶりに紙の本で購入したから、一応は気合いも入っているのである。まず、コロナ禍の影響を受けて紡がれた物語自体に興味がある。

村上春樹でいうと、オールタイムベストは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という流派なので、佇まいの非常に似た本作が楽しみというのも大きい。1985年の新潮社版は司修の挿画が記憶に残るものだけれど、今度の新刊のタダジュンのカットもよく似た雰囲気を醸して、その趣向もいい。

海からきたチフス

この日、畑正憲が亡くなったというニュースが流れる。北杜夫から入って、この人のエッセイも子供の頃に読んだけれど、何より記憶に残っているのは角川文庫にあったジュブナイルSFの『海からきたチフス』で、小学生の夏休みのひととき、あまりの面白さに衝撃を受けたものである。

生物に不可欠なアデノシン三リン酸、ATPというものを、この小説を通じて知った。そして思えば、いつまで経っても侵略ものが好きなのにも、この小説の影響があるような気がする。三つ子の魂百まで。

急に具合が悪くなる

『急に具合が悪くなる』を読み終える。2019年に亡くなった哲学者の宮野真生子と、人類学者の磯野真穂の往復書簡による共著。宮野さんの遺稿というべき内容を含んでいて、没後、あまり間をおかずに出版されたのだけれど、これまで読むことができていなかった。哲学者としてのこの人というより、2016年まで更新されていたブログの一読者としてのファンで、西陣での暮らしとそのライフスタイルに憧れたものである。

最近、ある記事で、病を得た人が闘病中に読んだ本のうち、もっとも影響を受けたとあって、そろそろ頃合いかと思った経緯がある。いくつもの重要な言葉がある。

この日、本邦の首相がウクライナを訪問する。電撃とも極秘とも冠されつつ、しかし移動手段や合間の映像が逐一中継される様子は来月の選挙を意識したパフォーマンスとしか見えないが、中国の主席がロシアを訪問しているタイミングにおそらくは図らずもぶつかってしまったことは、国際関係の図式として重大な意味を持っている。喜劇とみせつつ、実はのちの悲劇という歴史の一幕になりかねないが、当人には何の自覚もないであろう。