Therefore

ク=ビョンモの『破果』を読む。韓国の小説がこのところの好みで、かの国の風俗を反映して匂い立つ韓国文化の雰囲気がいい。本作もはじめから生活を感じさせる密度の濃い描写が続くのだけれど冒頭、「つまり」と始まる文章は格調の高さにも年季が入っている。いやしかし、フランス現代思想じゃあるまいし。

45年間のキャリアを持つ女性の殺し屋が主人公という設定に惹かれている。月末に配信がある『キル・ボクスン』がちょうど殺し屋の話で、チョン=ドヨンのイメージで読み始めたのだけれど、違うわな。

地球の果ての温室で

アメリカに続きカナダが、領空を侵犯した未確認飛行物体を撃墜したと発表する。実際には米軍のF22がこれを行なったらしいが、飛来する物体への反応は逡巡なく激烈なものとなり、事態はエスカレートする一方にみえる。いや、これが中国のSIGINT機材でなく、他の星系からの使者だったらどうするつもりなのか。

『地球の果ての温室で』を読み始める。『わたしたちが光の速さで進めないなら』のキム=チョヨプの長編で、ダストと呼ばれる物質がもたらした大厄災のあと、一応の再建を果たした未来の物語。環境に適応し変異を繰り返して繁茂するモスバナと呼ばれる植物と、それを調査することになる主人公というのが導入の設定なのだけれど、この物語が書きすすめられたのは、ロックダウンのさなか、外出もほとんどできない状況にあってということだから、現実にも呼応するところがある。

その事情が日本語版への序文では、ソウルにある作家のためのレジデンスで、窓の外の世界に伝染病が広まっていくというのは、本当に終末後の世界に入り込んだかのような体験だったと語られるのだが、アーティスト・イン・レジデンスで小説が書かれるということ自体にちょっと感心してしまう。もしかしたら本邦にもあることなのかも知れないけれど、こと文筆の助成については韓国に文化と呼ぶべき懐の深さがあるような気がする。

Edition Critique

さて、2022年も高田大介の『図書館の魔女』の続編は出ることなく過ぎる。とはいえ、紙魚の手帖で『記憶の対位法』の連載があり、別冊文藝春秋ではエッセイに加えて連作の『Edition Critique』の掲載が始まっているので、進捗が何もないというわけではないのである。この年末はその『Edition Critique』を第1話、第2話とゆっくり読んでいる。何しろ「文献学というのはテクストを可能な限りゆっくり読むことだ」という言葉が引かれていて、文献そのものの探究を題材とした話であるからには。この伝でいくと、文献学にかかわる創作が可能な限りゆっくりであっても不思議はない。それはともかく、こうした素材をよく面白い小説にするものである。

年の暮れ、ニュースでは防衛産業の生産ラインの国有化を可能にする法案が国会に提出されるというリーク情報が伝えられる。これがNHKのニュースになるのはもちろん意図にもとづくもので、兵器輸出にかかわる基金の創設といった剣呑な話まで添えられると、一気呵成にことを推し進めようという強い意志を感じざるを得ない。松本清張が言うように、2.26事件のあと、軍部と軍需産業は手を組んで「大股に」戦争に向かうのだが、その共謀の内実を国民が知るのは戦後になってからで、利害にもとづいた同じような策謀があったとしても全く驚かない。

包囲戦

読んでいた本にレニングラード包囲戦が言及されていたので、久しぶりに『卵をめぐる祖父の戦争』が読みたくなってこれを買い求める。以前読んだ時はアマンダ=ピートの夫で脚本家というのが著者のデイヴィット=ベニオフのステータスだった訳だが、2010年代は『ゲーム・オブ・スローンズ』の共同プロデューサーにまで上り詰めたらしい。へぇ。Netflixで『三体』を作るというのもこの人である。何しろ父親はかつてのゴールドマンサックスの社長、セールスフォースのマーク=ベニオフが親戚だというから、もともとのセレブ体質はあるとして、小説を読めばこれが面白いので創作の才能があるのは確かなのである。

導入の数ページ、言及されるミュータントのスーパーヒーローものの脚本はどうやら『ウルヴァリン』だし、女優の彼女についての会話もあるので、ひょっとしたら本当のやり取りかと思わせて、堂々とフィクションであることも宣言する語り口のうまさには唸る。以前も巻を措く能わずとなった記憶があるけれど、とにかく読ませる。

人間であることをやめるな

半藤一利の『人間であることをやめるな』を読む。筆者の感慨から昭和天皇が『日本のいちばん長い日』の映画を観たことを知る。もちろん、原作の書籍も読んだということになる。そこにあった思いは今となっては知る術もないとして。2021年に亡くなった後の刊行で、いくつかの原稿を取りまとめた体裁だけれど、幼い頃、東京大空襲を生き延びた筆者が伝えようとしたことにはブレがない。そして2010年代の後半までに語られた懸念は2022年現在、悪い方向で的中しているとみえる。最後のエピソードは宮崎駿監督の『風立ちぬ』についての一文だが、来年の『君たちはどう生きるか』が戦中世代のほとんど最後のメッセージになるのではないか。

ダリア・ミッチェル博士の発見と異変

アポカリプス小説が好きなので、ときどきその目的でAmazonをうろついたりするのだけれど、キース=トーマスの『ダリア・ミッチェル博士の発見と異変』はファーストコンタクトものであり、インタビュー形式のオーラルヒストリー小説でもあるというので反射的に買い求めてしまう。『World War Z』が極北であるように、滅亡とその口碑は絶妙なケミストリーを生み出す組み合わせなのである。

本作はやや生真面目なつくりで、興味のない向きには全く面白くない可能性はあるとして、趣味を同じくする特定読者には楽しめるであろう。『WWZ』があれほど面白いのは、元ネタのわかるさまざまな仕掛けが仕込まれてもいたからだけれど、そのあたりの遊び心はあったとしてもわずかとみえる。そしてタイトルの通り、ダリア・ミッチェル博士の手記が世界の終わりを語ることになるけれど、結果、視点のモンタージュや場面転換の大きさによるスケールの効果は減殺されていると思う。世界の終わりも自国中心のエピソードというのは、あまりにもったいないというものではなかろうか。

アノマリー

Kindleで早川書房のタイトルがセールになっていて、これを眺めているうちポチポチといくつかを買い求めてしまう。デジタルのライブラリには既にいわゆる積読が並んでいるにもかかわらず。本というよりは電子データの利用権に過ぎないこれらを、安いと思ってしまう心理と行動は行動経済学が予想する人間の不合理性として名前がついているに違いない。

で、エルヴェ=ル・テリエの『異常 【アノマリー】』を読み始めている。隅付き括弧がタイトルにあるのは珍しいと思うのだけれど、『L’Anomalie』という原題に異常を訳語として当てるのに躊躇があるのはわかる。アノマリーという言葉のWikipediaが言うように、アノマリーは評価というよりは現象であり、その原因が解明されたあともその現象を示して使われる時間軸をもち、よりインクルーシブであることで世界観のタテヨコを感じさせる含意があるみたい。日本語がアノマリーに相当する単語をもたないということ自体に意識的だという点で、この翻訳は信頼できる。