『ザ・ロード』を観る。コーマック=マッカーシーの同名小説のほぼ忠実な映画化。もちろん112分の尺なので、それなりの割愛はあるわけだが、立ち上がってくる心象風景は原作の印象に近い。したがって、ずんと腹に重い。立派なものである。
何らかの理由で終末が訪れた世界。木々は枯れ、動物も死に果て、わずかに生き残った人々が文明の残滓をすすりながら、ある者は人を食って生き存えている。『マッド・マックス』でさえ温いと思えるようなミニマルな終末世界なのである。再生の希望はほとんどないようにみえる。
男とその子供は南への旅を続けている。男の妻は世界の終末後に子を産み落とし、どこかの暗闇で自ら死を選んだ。子供が生まれたのは世界が終わってからなのだが、言葉を操り字を読むことさえできそうだ。男は夢のなかで過去を反芻し唐突に目を覚ますことを繰り返す。画面の切り替わりは唐突だ。この演出は、執拗な文体で段落ごとにコントラストをつくる、かの原作を想起させる工夫となっている。
親子が南を目指すだけの話であり、登場人物も限られていて、画面はほぼ灰色という映画でありながら、物語の起伏は急峻である。回想に始まり、過酷な現実世界が描かれたあと(地下に人が閉じ込められているエピソードは地獄絵図そのものだ)ある場所で親子が食料を得たあたりから主題が急速に立ち上がってくる。子供の影が見えないこの世界は、つまり弱者の生きることの出来ない文字通り弱肉強食の世界であるがゆえに、生存のための共同体もまた崩壊している。そうした道筋の上にある世界で、男は生きるために警戒し他者とのかかわりを避けるのだが、子は老人を助け、盗人にすら食料を与えようとする。子が世間知らず、といって片付けるには世界はあまりにも過酷なのである。ここに描かれているのは、弱者を助けよ、奪うのではなくまず与えよという、社会を構成するための条理であり、マッカーシーはこの「当たり前」を確認するために世界を滅ぼしてみせた。「当たり前」の輪郭があまりにもおぼろであるがゆえに、モノトーンでミニマルな舞台が選ばれたのである。
偶然によって食料を得て、子は感謝を捧げる。上方から指す光は教会堂をイメージさせている。男の祈りはなおざりである。この二人が、ともに「善き者」であろうとし「火を運ぶ」者でありながら、異なる原理を抱えていることを示唆する場面である。
子はその男から「望遠鏡」と「銃」を受け継ぐのだが、生死を分けるのは「教育」となるだろう。コミュニケーションの能力を有しているからこそ、父の庇護から離れた絶望の淵で、子は他者との会話のなかに生存の可能性を読み取るのである。
Do you have any kids?
単純な問いではあり得ない。子供、つまり次世代の担い手であると同時に弱者である存在を、その共同体の成員と数えて構成しているか否かはこの世界において死活的に重要なポイントであることを観客は既に知っている。この暗い物語の結末において、しかし一抹の希望があるとすれば、そこに倫理的な社会の再興の可能性が示唆されているからだろう。
男は世界を滅ぼすことになった前世代に属している。滅びの兆候は至る所にあった、と道の途中で出会った老人は言う。つまり、自分が生きるために他者を見捨て、弱者の肉を強者が食らうという共同体の帰結は、かの終末世界となるに違いない。分け与え、弱者を埒内においたあり方なしに文明の先行きは暗い。マッカーシーは恐らくそう考えており、この映画はそれを見事に映像化している。