『プレシャス』を観る。いろいろな読み方が出来る物語だが、まずは家族、個人、社会、親族構造といった言葉で想起される内容について深く考えさせずにはおかない。あるいは愛について。
主人公のプレシャスは最悪の虐待を受ける境遇にあって、読み書きもままならず、孤立して無口であり、ただし数学は得意で、つまり論理的思考の持ち主であり、経緯あって通うことになったフリースクールで言語とコミュニケーションへの習熟を深めるに従って自分の人生を切り拓いていく。この筋書きは示唆に富んでおり、人が社会の成員として成熟していくための要件について意図をもって描いているあたり、単なる成長や復権の物語とは一線を画している。
虐待の渦中にあって、プレシャスはしばしば月並みな妄想、つまりセレブになりたいといったありふれた願望に閉じ籠もることでこれをやり過ごそうとするのだが、現実にはその容姿がこれを予めあり得ないこととして説明しており、歌の才能すらないことが知れている。映画的な成就の予感は皆無である。アメリカ的なサクセスストーリーの構造的な欺瞞を糾弾しているという読み方も出来る。
その演出は平易である。プレシャスが鏡の中に投影する自己像は、物語の終盤には本来の自分自身に回帰する。安易な救いを排除したこの映画において手渡されるメッセージは輪郭がはっきりして幾分ごつごつしている。
マライア=キャリーが福祉課の職員の役で、ほとんどノーメイクといった感じで出演している。プレシャスの母親役はモニークである。アカデミー助演女優賞をものにしたクライマックスの演技は熱演であろう。
物語の行方はわからない。明るくはない、という見方ができるだろう。だがしかし、この映画は社会化を描いてはいるが、人生の社会的意義を問うていない。明るさというのもまた相対的なものである。