『レスラー』をもう一度、観ている。この映画は様々な象徴が散りばめられていて、二度目の鑑賞というのが面白い類のフィルムである。再読に耐え含蓄がある。
主人公のランディは脇腹の負傷をした試合の直後、心臓の病で倒れ、バイパス手術をして回復するのだが、このあたりは典型的に死と復活のモチーフを象ったものであり、言うまでもなく、詳しく病名の明らかにされない心臓病それ自体も肉体的な損傷を示しているばかりではない。プロレスのリングは荒野であろう。ヒロインのキャシディが極めて明示的に『パッション』に言及しているように、ランディはキリストの役回りを振られている。それも悪魔の誘惑に負けてしまう不完全なキリストである。リングポストに上る姿は、もちろん十字架に掛けられている人のそれであるということならば、納得もいくし、何よりラストの収まりがいい。であれば、キャシディその人はマグダラのマリアに他ならないということであり、そう考えてみると頭の風通しが大変よくなる。
そもそも満身創痍というあたりから象徴の要素はたっぷりと盛り込まれているのだが(だからこそ『パッション』に言及されもする)木工用のステープラーによる凶器攻撃のシーンは、視覚的には非常に痛々しくグロテスクなものであり、いやもう、何てことするんだと弱々しく呟いてしまう内容なのだけれど、これは「大工」の暗示であって、脚本的には不可欠と言えなくもない。いやはや。