連続失踪事件の様相となった高齢者の所在不明事件と悲惨な幼児の餓死事件は、それを許すような共同体を我々が構成しているという点で、同質の問題を提起しているように思える。
血縁も地縁もごく希薄となり、ひとびとの網目のなかで知れず人間が死んでいくことを許すような社会を近代において作り上げてしまったのは、もちろん行政の怠慢などではない。価値観の中心に金銭をおいて、最小の家族構成を好み、土地の共同体はむろん考慮の埒外というライフスタイルは、本質的に利己の傾向が著しく強い生き方であって、「万人の万人に対する闘争」を社会が形而上的に実現してしまっているのだから、問題はこのあたりにある。
子供が生きることが出来ないような社会はそもそもその継続性において疑義があるので、社会に自己保存の知恵があれば、この利己の傾向を抑制する方向に力が働くはずである。復古とか保守とかいう雰囲気は、思えばこうした局面において力を得るのであって、以降、おそらくはいろいろな場面において保守勢力の台頭がみられるであろう。こちらも年をとったので、一概にそれが悪いことであるとは思われない。