見慣れないアイコンが並ぶTwitterのタイムラインを眺めながら、いつしか敬虔な気持ちになっている。事態が始まってから、初動の騒乱を経て、状況が明らかになるにつれ、日常の会話は軽口さえも控えられるようになって、だけどこれは「自粛」というやつとはちょっと違うな。
これは「祈り」に似ている。
さまざまなアカウントが交錯するタイムラインの向こうに、不在の存在を感じる。
Twitterという仕組みの文脈の組成力は、言語あるいは会話の本質に寄り添っている。普段、カレーの話とか、犬の話だとか、猫の写真が流れているタイムラインは、つまり日常の文脈の写しとなっているけれど、これは同時にベースラインを形成するものであって、tweetが「ない」ということが逆に存在を意識させる効果がある。いうまでもなく。
ちょっとした会話の合間の沈黙のように。
公式RTを行うということ。自分ではない誰かの想いを届けようとする行為は、それを必要とするひとに近づこうとすることに他ならない。他者に近づこうということは、ひとの立場に身を置こうとすることは、つまり祈るということである。
自分語りをやめて、公式RTを行うということが、ふと身じろぎして始める祈りのように感じられるのは、この非日常の文脈が立ち上がっているからだろう。
この祈りは尊いものである。
危機にあって結果を批判することはたやすい。現に苦難にあるひとの代わりに語ることもまたたやすい。危機にあって自分を語るひとは、容易に結果を批判するようになる。そのことを知るTLに感服する。
自分はといえば、新聞の論調、メディアとしての構造にイラついて仕方がない。だがしかし、今はそのときではない。できることをするよ。そして祈る。