『9-ナイン』を観る。新春早々、えらい映画を観てしまったという感を拭えない。ライアン=レイノルズが主演する映画はむしろ駄作のほうが多いような気がしないでもないが、ここまで脈絡の見えない映画はなかったのではないか。思いつきを繋ぎ合わせて尺をとり、最後に帳尻を合わせようとすると大体こんな感じになると思われる。だが、伊藤和典が看破したように「ファンタジーにだって抽象度に応じた階梯というものがある」のである。古来、このような物語の作り方、ことに結末のつけ方は忌避されてきた。多くの観客が憤慨するに違いないという理由によって。つまり、馬鹿にしてんのか。
内容は三つのパートに別れており、二つめのそれはリアリティテレビ風の作中作という設定になっている。その内容もドラマの脚本家を主人公として、その作品がボツにされるまで、というかなり自虐的な仕立てで、パイロットの反応度調査での結果が芳しくないというエピソードまであるという入れ子構造だが、実際にこのような淘汰のシステムが機能しているのであれば、この作品自体、決して日の目を見なかったであろう。
思わせぶりな伏線があるとして、それらは決して収拾されることなく、それぞれのパートの設定に何か意味があるとして、決して明かされることがないのである。役者は一応、真面目に演技をしているように見えるのだが、その努力は空回りと映らざるを得ず、むしろ気の毒でならない。