『J・エドガー』を観る。J=エドガー・フーバー自らが語る伝記の口述筆記に合わせて物語は進行する。である以上はそこにある事件は誰もが知る歴史上の出来事であり、自伝の常として語られる事実は自我により脚色されているのだが、画面は概ね事実をなぞることで淡々とそこから逸脱し、結果、フーバーの特異なキャラクターが浮き彫りになるという仕掛けとなっている。視点はフーバーその人から振れることなく、事件にも陰謀にもほぼ関心をもたず、にもかかわらず、時間軸を自在に往還して137分のテンションを保っている。事件がほぼ添え物である一方、フーバーが支配する個人的な空間は象徴と隠喩に満ちており、演出家としてのクリント=イーストウッドの仕事は深い洞察を伴ったもので、いつもながら安定感がある。
ナオミ=ワッツがフーバーの秘書ヘレン=ギャンディを演じているのだが、もちろんこの人も実在の人物ではありながら、フィクション以上に奇怪な役回りを担ったのであり、いろいろ興味深い。