『アメリカン・スナイパー』を観る。クリント=イーストウッドの映画である以上、大した映画なのだろうということはあらかじめ判っていたのだが、実在の狙撃手の自伝に基づいて、しかしその自我が無意識に囚われている構造にまで踏み込んで描き、しかもその描き方が感心するくらい節度のあるものなので、さすがと思ったものである。
冒頭、クリス=カイルの回想シーンで暗闇の中を馬が去り終盤で再び馬を登場させる類の、ある意味であからさまな象徴の使い方はもちろんだけれど、クリント=イーストウッドの特徴でもある定石をきちんと踏む演出は健在で、口論に至るシーンでは壁が画面を割るようレイアウトが決まったりする。つまりは丹精の集積が全体の密度を生み出しているのであり、職人芸とはこういうものを云う。
クリス=カイルその人が、典型的に信心深い南部の家庭の出身で正邪、善悪についてごくシンプルな原理を奉じている人間であるのは原作となった著作から窺える通り。映画は、単純な規範が主人公を律し、しかし戦争という個人の力では制御し得ない状況ではその単純さが結果として心を蝕んでいく様子を丹念に描いている。これは、戦争そのものが大量破壊兵器というシンプルなフィクションを奉じ、人々の判断を支配しながらついに複雑な現実に対しては無効であるという構造を二重写しに連想させ、さらにはその戦闘のなかで「伝説」というストーリーを背負わされた主人公その人にも重なって見応えのある重層構造を作りだしている。
結局のところ社会的に有効とみえる規範も有事において複雑な現実に抗し得ないと思えば、映画のクライマックスで全てが砂嵐に呑み込まれるのも単にアクションシーンのスケールアップとは見えない。主人公が家庭に帰還し再生するためには、現実の複雑さがもたらす大きな力に根底から打ち砕かれる必要があった。超長距離狙撃の部分はむしろ商業的なオマケであろう。この部分だけ演出過多であるようにも見えるが、2100ヤードの狙撃自体にそもそも現実感がないのだから仕方がないといえば仕方がない。