アイアムアヒーロー

『アイアムアヒーロー』を観る。
予定もなく、本を読み、例によって思いきりのんびりするだけの日曜日といえ、6時前に起床し、家中に掃除機をかけ、お風呂とトイレを掃除して、犬たちの散歩まで済ませ、ふと思い立っての行動開始である以上、初回の上映時間に間に合わせるのは綱渡りといわざるを得ず、ヒゲの剃り忘れも致し方ないというべきである。風貌を鈴木英雄とかぶらせる意図はないと了解されたい。それも決して大泉洋的な意味でなく。
誤算だったのは休んでいるうち、いつの間にか5月となっており毎月1日の映画の日に当たってしまったことで、子連れ客で長蛇の列という映画館の光景はこの地方ではかなり珍しい。とはいえ、こちらの目的はR15+指定なので、いささかも動揺することなく、1,100円のお得なチケットを買い求めて上映を待つ。
テレビでは『重版出来!』にはまっているのだけれど、民放の連続ドラマを録画してみるというのは当方としてはかなり珍しいことで、マニアックに作り込まれた内容もさることながら、原作をうまく再構成した脚本の手腕を高く買っている。野木亜紀子という人の名前を覚えたのは、だからごく最近のことなのだが、映画『アイアムアヒーロー』はこの人の脚本によるもので、主演の大泉洋がライフルを構えたポスターは同時期に劇場にかかっているレオナルド=ディカプリオの『レヴェナント』にも全く同じ構図のスチールがあるのだけれど、迷うことなくこちらをとる。
もはや大河の趣のある原作は20巻までくると哲学的ゾンビの世界に到達しているけれど、127分ではもちろんそれを消化するはずもなく、そもそも完結していないマンガをどう料理するのかといえば、予告編が紹介しているようにクライマックスをアウトレットモールでの攻防においている。つまり、ほぼ8巻までの内容をカバーしているけれど、良くも悪くも映画的な構築とスピードで、修羅場にあたり残弾を数えて杜撰な管理を心配する主人公という設定は後景化し、大泉洋が演じる鈴木英雄というよりは鈴木英雄を演じる大泉洋が現出して、そのあたりは役者側の都合というのもあるだろう。
日常を非日常が侵襲していく序盤は細部の描写がいきていて、どうかすると原作も第1巻が好きという当方からすると満足なのだけれど、輸送ヘリのシーンはともかく、米軍機の大群が脱出していくあたりの演出は嘘臭さが鼻につく。横田基地あたりからの飛来だとして、画面的なインパクトはともかく、そもそも機体が大きすぎる上に密集した数も多すぎる。タクシーが160キロで走行中に事故を起こして乗員が無事というのもいただけないし、アクションに入ると絵面優先ということなのか、急に荒っぽくなるのはどうしたものか。
そのあたりは勢いでよしとするにしても、残念だったのは銃器の取り扱いに愛を感じないところであり、なかんずく96発の散弾が残っているというセリフがあるにもかかわらず、着用しているベストのポケットに物が入っているように見えないのはどうなのか。原作の漫画ではいよいよ総力戦という展開で、散弾が詰め込まれてパンパンに膨らんだポケットが描き込まれているのに唸ったものである。Goofsついでに書いておくと、血液が危険という設定のわり、血みどろの描写が優先されてどう考えても感染しているというところに最もモヤモヤしたかもしれない。
とはいえ、いろいろ言っても127分を飽きずに観ることができる水準にはあって、こういう積み重ねが本邦の映画を盛り上げていくのだと思えばダメという気にはならない。こちらは原作にない『峠の我が家』の曲を小道具として盛り込んできたあたりは脚本の手柄で、なんとなく富士山を目指すけれど結末を示すことのない本編のラストにいくばくかの明るさを残しているし、原作とわずかに異なるセリフもいい。

八ヶ岳