セーラー服と機関銃 –卒業–

『セーラー服と機関銃 –卒業–』を観る。
初めて買ったアルバムは薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』サウンドトラックだったという自分語りはもうしたことがあったろうか。あれから35年、角川映画40周年にあたって、地続きの続編を作ろうというのだから多少の無理は承知ということなのだろうけれど、ともあれ、別にかつてのファンだから観たということではない。無論のこと橋本環奈が目当てというわけでもない。いや、巷間にいわれている通り、頑張っているとは思ったけれど。
そんなことより、倶利伽羅紋紋を背中に秘めた浜口組の若頭を、山口3区選出の内閣官房副長官 矢口蘭堂こと長谷川博巳が演じてドスの効いた声を響かせているとあっては観ないわけにいかないのである。大方の予想通り、つまり『シン・ゴジラ』つながりというわけだが、こっちの映画は典型的にダメな邦画の記号で作られていてあちらとは全く様子が異なり、それがカドカワだというのなら実にカドカワらしいのだけれど、だがしかしある部分で突き抜けたところがあって全くダメというわけでもなく、少しく面白いことになっている。この世界の悪の構造に奇妙なリアリティがあるという点において、かの映画を想起させないこともない。悪役の安藤政信はいつも通りで代わり映えがしないとして。
橋本環奈は薬師丸ひろ子が背負っていた戸惑いではなく、小柄であっても姉さん女房的な気質を演じているので、誰かが言っていたように『極道の妻たち』みたいな星泉になっているのだけれど、その範囲で堂々とした演技をみせて初主演の大任を果たしている。彼女が悪いわけではなく、今さらこの題材を持ってきたオトナが悪いと、皆が口を揃えるのも無理はない。
クライマックスはM3サブマシンガンを擁しての出入りでハセヒロの見せ場もたっぷりあるのだけれど、最後の最後は、主演が言葉通りセンターにひとり立ちで全部持っていった。いや、あまりにも意表を突かれたので、他は残らなかっただけなのだけれど、茶番すらそれなりに消化してしまう稀代のアイドルの存在感によって、ことの異様は一層、際立っており、企画段階における広義の力量の見誤りが全体のトーンを意図しない方向に演出しているのではないかという気がしてならない。橋本環奈というひとをちょっとナメていて、その想定に収まらなかったのだと思う。