最近の小説である『パンドラの少女』にどこか懐かしい匂いを感じるのは何故なのかということを考えていた。劇中で「飢えた奴ら」と呼ばれるゾンビの性質は、ブードゥー的な死者の復活というわけではなく『28日後…』風の感染型の高速移動タイプだし、これをあたかも生物兵器として利用する無法者集団は『マッドマックス』を思わせる振る舞いで、近年のメジャーな先行作品の影響下にあることを色濃く感じさせる創作であるだけに、それは一層、不思議なのである。
ストーリーはこの感染の原因を究明しようとする冷酷な科学者の振る舞いに縦軸があって、そういえばゾンビ化の理由を解明しようとする動機をもった物語を読んだことがあまりなかったということに思い至る。あの長大な『World War Z』ですら、ゾンビは既にそこにあり、ある種の運命として襲来するものであり、これを解明しようというエピソードはなかったのではあるまいか。
たとえば『アイアムアヒーロー』には科学者も軍隊も登場せず、何が起こっているのかさえ定かではない『ドラゴンヘッド』的な終末が描かれているけれど、軍事はあっても科学者には出番がないというのが最近の気分ではなかったか。科学技術の多くが既に失われた世界を描きながら、探究が重要な動機として物語を駆動するという点で『パンドラの少女』はどこか古典SFを想起させるところがある。であるにもかかわらず、しかし現代文明の残滓には希望を託さないところが21世紀の黙示であろう。
実はレトロな感覚を励起するところは他にもあって、この本のタイトル、そして装丁の組み合わせは、ジャンルが全く異なるにもかかわらず、どこかジャック=ケッチャムの本邦の出版を想起させるように設計されているけれど、読後感を踏まえればその意図はよくわかる。