中学、高校といえばもう遥か昔のこととなるけれど、何かと行き届いた同窓生というのはいるもので、今も母校同窓のメーリングリストが運営されていて、時おりメールが行き交ったりする。今回は、かつての同級生で母校の数学教師になった井本くんが実践しているユニークな授業が新聞記事で取り上げられた件をきっかけとして、幾人かの消息も聞こえてきたのだけれど、その中身自体はともかく、人間の個性とそれによって決まる共同体での立ち位置というのは、没交渉のうえ数十年経った後でも特に変わらないものだとつくづく感心する。
何しろ、話題は全く異なるにもかかわらず、当時の人間関係が鮮烈に思い浮かぶ、「いつもの会話」が展開されるわけである。今回は、それを「いつもの会話」であると認識する己が脳髄の不思議に驚いたのだけれど、思えばこのようなパターンを認識するセンサーは常に働いていて、社会はそれによって編み出された立体地図によって成り立っているのであろう。
あまり関係ないけれど、フィクションの出来不出来というのは、適当な立体地図を描くことができる情報の繰り出し方が出来ているか否かにかかってきて、たとえば創作された会話のリアリティは、このセンサーに違和感なく受容されるかがキーになっているに違いないと徒然に考え、何だか興味深かったことである。