『ヱヴァンゲリヲン』の映画について、鶴巻監督は『破』のコンセプトを、山手線と京浜東北線は東京駅を出発して品川駅までは同じ景色を見ているけれど、その先は全く異なる風景を見ることになるという話を使って説明したということだけれど、実はこのエピソードがちょっと好きで折に触れて思い出す。
囲碁が定石から始まり、しかし状況と論理の積み重ねによって無限の決着に行き着くように、同じ素材を使いながら全く新しい物語を編んでいる直近の原作付きドラマの面白さはちょうどこんな感じ。一貫した論理や動機によって、やがて物語の景色が変わっていく。あらかじめ原作を知っているのでその必然性がわかるという感じが好きである。
長谷川博巳による『獄門島』は、結局は事件を防ぐことはできない探偵という例の命題を突き詰めたうえで、捜査にとどまらず審判に踏み込んでいく狂気まで描かれて、役者もよくこれを演じていた。
『逃げ恥』の原作ではみくりが経済的な対価にこだわるという基本設定がよりはっきりしているのだけれど、テレビドラマにおいてはおそらく諸般の事情からこのあたりは抑えめとなっており、その結果、ある意味で必然的に、登場人物たちに自分自身が何を求めているのか繰り返し自問させることになった脚本の文脈は自ずから違う展開をもつようになっている。誰からも求められないと思う人たちが求められることを求めるということは初回からの動機になっているけれど、ひょっとすると一貫性は原作よりも徹底しており、その一貫性が中盤のクライマックスを生んでいると思えば、構築の美しさに感動せざるを得ない。
それを生み出すのに制作側は大変な呻吟を重ねているようで、脚本家のツイートをみてこれにもちょっと感動した。
仮眠から目覚めた瞬間ベッドの近くにおいてたフタを開けたままのペットボトルに手が当たって倒して頭から水かぶって自分もベッドもずぶ濡れで哀しい。どうせ起きなきゃならないからいいんだが寝る前に悩んでたシーンの解決策が目覚めたとき浮かんだ気がするのに霧散した。ような気がする。気がする。
— 野木亜紀子@火10逃げ恥 (@nog_ak) 2016年11月20日