顔のないヒトラーたち

『顔のないヒトラーたち』を観る。いわゆるフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判を題材に、フリッツ=バウアーの支援を得てアウシュヴィッツにおける戦争犯罪を訴追に持ち込もうとする若い検事の苦闘を描いている。今でこそアウシュヴィッツはユダヤ人迫害の記号として語られているけれど、戦後20年近く経つまでドイツ国内では強制収容所の実態がほとんど知られていなかったということを意外に思う人も多いのではあるまいか。現在のドイツの歴史認識は敗戦と同時に獲得されたものではないし、自分は命令に従っただけだというアイヒマンと同じ論法で多くの元党員が戦後も公職に就き、社会もそれをよしとして不都合な歴史を忘れようとしていた経緯があったのである。戦後はポーランドに帰属しているアウシュヴィッツを指して劇中、外国の話とするやりとりが何回か出てくるのだけれど、観客との歴史観の違いが際立つこのあたりは、ちょっとした不条理劇の様相で見どころのひとつ。
主人公のラドマンはおそらく創作の人物で、終盤にかけてのとってつけたような苦悩には違和感もあって主軸の造形は今ひとつという気がするのだけれど、アイヒマンの拘束を優先してメンゲレを取り逃がすに至るモサドのジレンマが描かれていたり、「執務室を一歩出ると敵だらけ」というバウアーの言葉が本人のセリフとして使われていたり、ディテールは結構よくできているのではあるまいか。何しろフリッツ=バウアー検事総長その人は当人によく似ていて主人公に据えてもよいのではないかと思ったのだけれど、つまり当事者としてのバウワーではなく、これを受け継ぐ世代が主役というところに戦後70年の映画としての意味があったのだろう。

桜