2016年に観た映画、そしてテレビドラマのこと 後編

洋画から着手したら、それだけでも結構、長くなったので前後編に分割することにしたのだけれど、来年こそはシンプルを旨としていきたい。

幕が上がる、重版出来!

2016年は圧倒的に本邦のコンテンツの再評価の年だったのだけれど、自分的時系列では、まずは『幕が上がる』が来た流れで、本作はももクロもよかったのだけれど、黒木華の圧倒的な演技に驚き、あまりに驚いたので思わず彼女のフィルモグラフィーを調べたことを思い出す。黒木華演じる吉岡先生が『肖像画』の芝居をやってみせるシーンは誇張なく鳥肌の立つ凄みがあって全部を持っていく。制作のドキュメンタリーとなる『幕が上がる、その前に』も観たけれど、こちらはももクロのみがフィーチャーされていて、残念ながら黒木華はほとんど出てこない。
劇場では『幕が上がる』と『くちびるに歌を』という、同じような設定をもつ映画が同時期に公開されたみたいだけれど、両作を比べれば圧倒的に前者に軍配が上がるのは仕方がない。『くちびるに歌を』は、だいたいのところ新垣結衣に仕事をさせていないのが失敗だし、お前らガッキーのこと全然わかっていないよというのはまた、別の話。
黒木華つながりで彼女の主演となった『重版出来!』をみたらこれも滅法、面白いし、脚本が素晴らしく原作を消化していることに感銘を受けて野木亜紀子の仕事に注目するようになったことを考えると、すべてはあのワンシーンから始まっているとも思えて感慨深い。

駆込み女と駆出し男

原田眞人監督の『日本のいちばん長い日』も観て、半藤一利の原作をひとつひとつ引き写したようなダイアログも映像のつくりも手を抜いたところがなく、よく出来ていると思ったものだけれど、同じ年に公開されたこのひとの『駆込み女と駆出し男』もジャンルは異なるもののやっぱり大作で、まずはその仕事量に感心し、内容をみて感服した。
主演の大泉洋は今年『真田丸』で新境地を拓いたけれど、本作の中村信次郎は剽軽なところもあるいつものキャラクターで、しかし尺を追うに従ってぐいぐい株を上げていく。何しろカッコいいのだけれど、思えばこういう役回りにハマる役者というのは案外いない。同じく大泉洋が主演をした『アイアムアヒーロー』の鈴木英雄も、そのタイトル通り最後には復権を果たす役回りで、得な役柄しかないというのは人徳ゆえか。ファンだけど。
『駆込み女と駆出し男』の見どころはやっぱりクライマックスの大審問の場面で、大掛かりな構成も素晴らしく、京極夏彦の想像力との類似を少し感じたけれどこの場面はBSプレミアムの『獄門島』のクライマックスにも影響を与えている気がしていて、文脈の広がりを考えればその重要性は作品の枠にとどまらない。ハセヒロの『獄門島』そのものも出色の出来だったけれど、イマジネーションはかくのごとく循環し世界を広げていくと思うのである。

ちはやふる 上の句・下の句

最近、邦画の前後編構成が多いのには批判的な立場で、単にきっちり終わらせてくれよという視聴者的な心情によるものなのだけれど、『ちはやふる』は評判がよいので『下の句』の公開が始まってから『上の句』を観に行って同日に『下の句』まで観たというケース。もちろん初めてのパターンなのだけれど、考えてみたら前後編の映画自体ほとんど観たことがなくて、これで敷居は低くなった。いや、面白いですよ。
『ちはやふる』については原作にも未だに手を出していないし、もちろんアニメもみたことがない映画デビュー組で、広瀬すずがいい役者なのは知っていたけれど、真剣佑や上白石萌音の名前はこれで憶えた。松岡茉優のよさを再認識したのも大きくて、役者について役柄ごとの振れ幅をみていくのは重要だと再認識した次第。
小泉徳弘による脚本は典型的な部活もののフォーマットに則って、スポ根そのものの展開を踏むだけといえば、ただそれだけなのだけれど、何しろキャラクターの立て方がうまいし、ハイスピードカメラ撮影をバンバン入れてくるあたりはジャンル映画としてもアイドル映画としてもよく出来ている。『セーラー服と機関銃 -卒業-』をこの路線で仕立て直すとどうなるかとか、妄想のタネはつきない。

君の名は。

『ちはやふる』『シン・ゴジラ』の上映前予告にこの古風なタイトルがあって興味を惹かれたのだから劇場予告というのも侮れない。主人公が神木隆之介くんというのは当然、知っていて、三葉が『ちはやふる』で大江奏を演じた上白石萌音というのもあらかじめ分かっていたのだけれど、テッシーのCVが梅原ナツキこと成田凌であることには最近、気がついて、もうそっちに持っていかれちゃった感じ。いや、それはともかく。
『シン・ゴジラ』と同様、311が濃く陰を落としているのは、1954年の『ゴジラ』と『君の名は』にも似ているということはさんざん語られているけれど、当方としてもっともインパクトがあったのはやはり311の記憶と忘却という文脈で、海外でもヒットしていると聞けばわずかな違和感があるほど。だがしかし、もちろん映画にはいろんな読み方がある。こちらにとって重要なのは、あのサイレンのシーンであり、そこからストーリーが再構築されたと言ってもいいくらい。それは映画そのものの仕掛けと同じ構造で、二重の再構築がすべて計算されているとしたらすごいことだけれど、たぶん期待以上の効果が生まれているのだろう。物語というのは本当に面白い。

シン・ゴジラ

そして、計算された特殊撮影を構築する一方で、iPhoneによる手持ち撮影まで投入して実写現場の勢いをあわせ画面に封じ込めたこの怪獣映画こそ、2016年を語る上では内外、ジャンルを問わずいちばんの映画といえ、だいたい同じ映画を劇場で繰り返し観たことも初めてだし、「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」という惹句にまで上映後に了解される奥行きがあって感心した。
311を経験していないこのニッポンについて、私たちが知っていることはしかし映画の中の話にとどまらず、そうした構造をつくりだした庵野秀明のダイレクションに舌を巻く。ディテールの積み重ねも、そのセリフも、もちろんのこと非凡で作家性を感じるものだけれど、現実を虚構に強引に接続させるアイディア自体が天才の仕事でなくて何だろう。

逃げるは恥だが役に立つ

映画が『シン・ゴジラ』なら『逃げるは恥だが役に立つ』はそれを越えてオールジャンルに屹立するNo.1になる。これについては既に多くを語っているけれど、ついでとばかり星野源の楽曲も買い集め、『箱入り息子の恋』や『コウノドリ』も観たりして、これまたなかなかいい。新垣結衣は既に別格として、石田ゆり子のInstagramも特にハニオ日記は中毒性があってハマっているけれど、最早、源さまのファンといっても過言ではない。かねて宣言のとおり、紅白の『恋』で今年はおしまい。