『15時17分、パリ行き』を観る。クリント=イーストウッドがフランスで起きたタリス銃乱射事件に題材をとり、犯人を制圧することになったアメリカの兵士たち本人を主人公として撮られた伝記映画だけれど、事件そのもののサスペンスより偶然、必要な資質をもった人間がその場に居合わせて惨劇を防いだという「神の計画」の必然性を再確認するような内容として語られている。
敬虔な翁がこの英雄劇から読み取ったのはそのような啓示であったに違いない。実際、タリス車内の格闘にはさすがに素人臭いと思われるカットもあって、アクションを観るようなものではなく、その瞬間、銃が不発であったということが重要な意味合いをもつ映画なのである。
一方で全くの素人を起用したわり、それなりのダイアログとなっているのは、さすがの仕事ぶりというべきか。レジオン・ドヌール勲章の授与式は実際の映像を継いだものとなっていて、当時と負傷の状況が違うのがわかるのだけれど、恐らくこの差異をあまり意に介した風がない姿勢こそ、現実の再解釈たるこの映画の本質なのではあるまいか。犯人のイスラム教徒に対する無関心もいっそ空恐ろしいほどである。功績に対する顕彰はオバマ大統領のホワイトハウスでも行われているのだけれど、その存在を全く無視したのもさすがクリント=イーストウッドは筋金入りの共和党支持者である。