森茉莉の『贅沢貧乏』を読んでいる。当人が魔利と書いてマリアという名前で登場する自伝的な連作エッセイで、森鴎外に溺愛された娘の、父の印税が入らなくなって以降の生活を垣間見ることができる。貴族とは、貧富の属性と関係なく、その精神性を指すのだと再認識した次第である。贅沢をして貧乏なのではなく、貧乏だけれど贅沢という話。妄想に傾きがちな美文は面白く、系統図を作れば森見登美彦も連なることになるであろう。
Month: July 2019
ボリス
国民投票の時点でそれほど真剣に考えず、とりあえず離脱に票を投じた英国民もボリス=ジョンソンを首相に戴くとなっては大いに後悔してるに違いないのである。あるいは、必ずや後悔するに違いないのである。以前、ボリス=ジョンソンの台頭に恐怖したのは2016年だったけれど、世界は1日も休むことなく悪い方向に向かい続けていたということなのだ。正常性バイアスというのもまことに恐ろしい。だが、この災厄を認識したとして、どこに逃げるというのか。
高潔
健康問題が取り沙汰されるドイツのメルケル首相だけれど、ヒトラーの暗殺を企てた兵士を称える記念式典で、軍の兵士に「不服従が義務となり得る瞬間がある」と述べたそうである。かねて、国際政治に残された数少ない良心と知ってはいたけれど、本邦に「ナチスの手口に真似る」人間がいる一方での、この精神の高潔はどうだ。保守とは本来、こういうものであろう。
選挙
もちろん投票に出かけて、今日は『いだてん』も休みなので『ダーウィンが来た!』で猫たちが生き抜く姿に感銘を受けて、テレビを消し選挙特番は観ない。今や、政治状況はお祭りのように消費すべきものではなくなった。ナチスの手口に学んだ輩は、じきに暴力的な手段を用いるようになるだろうし、それまでの時間はあまり残されていないように思える。
ボヘミアン・ラブソディ
『ボヘミアン・ラブソディ』を観る。ファルーク=バルサラがフレディを名乗って以降、1985年のライブエイドまで。もともと伝記的映画をそれほど好まないところはあるにして、こちらとしても今さらという感は拭えないのだが、さすがラミ=マレックのフレディ=マーキュリーは違和感を感じさせず、ブライアン=メイも本人かというレベルで、かなり楽しめた。
もちろんモノマネが主眼というわけではなく、終盤、やや線の細さが強めという印象があるフレディが命を燃やし尽くすようなパフォーマンスをするところに向けて話は収束していく。実話に基づくとはいえ、バンドものとしてよくある骨格をもちながらクィーンの物語として成立していることには感心したものである。
あさイチ
午前中の予定が空いていたので、朝をゆっくり過ごして悠々と出社したわけだが、『なつぞら』をオンエアで観て、続くあさイチの冒頭、久米宏がゲストで出演していたので、つい観入ってしまう。この時期、体制に忖度してばかりのメディアを批判する意見を開陳することがわかっていて、この人選という点については死せるNHKにまだ残っているスタッフの心意気を感じざるを得ない。
この程度の造反ですら快挙と映る異常な状況に我々は生きている。その空気は戦前の本邦を駆動したものと同質であるに違いなく、「ナチスの手口を真似る」輩が選挙期間にことさら反韓感情を煽る茶番を繰り返しながら、批判的に報じられることさえないのであれば、その手口が有効であるとすら考えるだろう。
電脳化
実業家としてのイーロン=マスクには胡散臭さを感じるし、その言動を振り返れば友人づきあいをしたいタイプではないと思うのだけれど、ハイパーテクノロジーを実用に近いレベルに持ち上げる手腕にハッタリ以上のものがあるのは確かで、Neuralinkの発表に至っては脳電極も手術用のロボットも、それぞれがSFレベルの到達と見え取り敢えず感心するほかない。そういえば、スペースXのファルコンの垂直着陸にも驚いたし、かなり律儀に驚かされている方である。