英国議会でのボリス=ジョンソンの窮状や日産の社長の辞任劇をみると、結局のところ世界のバランスを回復するのは制度設計だということがよくわかる。そのシステムが機能しているのをみると安心するけれど、機能していないシステムを認識することこそ重要で、本邦の国会が筆頭、ついで報道機関というところか。隣国で疑惑のある人物を大臣に任命したという話を上から目線で批判的に報道している向きがあるようだけれど、問題のある人間しかいない感のある自国の内閣を指弾するのが先ではないのか。
Month: September 2019
アロハ
『アロハ』を観る。キャメロン=クロウの製作・脚本・監督で、ブラッドリー=クーパーの主演にエマ=ストーンとレイチェル=マクアダムスが絡むという豪華な仕立てであるにも関わらず、あまり話題にならなかったような気がする。興行的にも散々だったみたいだけれど、何故か民間宇宙開発の話を本筋に組み込んできたのは大きな敗因のひとつと見える。スケールが大きいというより、この生煮えのB級感は何なのか。フラの使い方が悪くないだけに得意の音楽を軸とすべきではなかったかという気がしてならない。脚本の出来からして『エリザベスタウン』での達成とはだいぶ大きな差があると思うのである。
惨事
今回もいいとこなしだった挙句、会談直後にプーチンがロシアの領有権に疑問の余地はないと発言したことが伝えられた日露首脳会談は、一方の当事者である日本のいう「未来志向」がいかに空疎な虚言かを確認するような展開になっているけれど、それを措いても例の「ウラジミール」スピーチには、たとえネトウヨであっても、薄ら寒さとともに国辱の二文字を思い浮かべたに違いないのである。プーチンは外交の場で侮蔑を隠そうともしないという点で真正の独裁者であり、その侮蔑を感じる神経を持ちあわせていないそのことによって国益は日々、損なわれていく。外交的惨事という言葉はこういう状況を指して使う。
無論のこと、スピーチ原稿を書いた人間にとっては、期待した通りの効果であったに違いないのである。それがどんなに愚かな内容であれ、一国の総理大臣を操ることができるというライターの昏い優越感が発露してしまうほど、この国の中枢に理不尽な抑圧と嫌悪の蓄積が進行している。それをあらかじめ止めるシステムも最早、存在しない。この一件から読み取れるのは、つまりそういうことであろう。
坂道のアポロン
『坂道のアポロン』を観る。川渕千太郎を中川大志が演じた2018年公開の実写版で、『くちびるに歌を』の三木孝浩監督がふたたび長崎を舞台にして美しい九十九島を展望する佐世保での1960年代を丁寧に描いている。いくつもの片想いを交錯させながら、主旋律は西見薫と川渕千太郎の一生ものの友情におかれ、文化祭でのジャズセッションをクライマックスとする王道の青春映画としての展開はいっそ神々しく、出演陣が高校生を演じている年齢の無理を感じさせない。いや、本当に。薫役の知念侑李は演奏のシーンでも指が動いていて、中川大志のドラムもそうだけれど、役者として立派だと思うのである。これにミューズとしての小松菜奈という鉄壁の布陣で、ラストシーンも秀逸。傑作ではあるまいか。
時は金なり
Kindleストアを巡回していて、竹宮惠子の『アンドロメダ・ストーリーズ』のページを眺めたら、全3巻のまとめ買いのオファーが表示され、これに10分のカウントダウンがついて「終了まで04:08」とか。
電書の初期はデジタルの表示で読む本というだけでも抵抗があったとして、いつの間にか慣れてしまったものだが、次は脅迫的な抱き合わせ販売に後退線を引かなければならないというのがこの世界だ。侵食には際限がないと思ったものである。
再演
巨大な勢力でバハマを直撃し、面積の7割を水没させたハリケーン「ドリアン」を、国際宇宙ステーションから撮影したという動画が伝えられていて、軌道上の静謐と眼下の禍々しい渦巻きの構図をどこかで観たことがあると思えば、これは例によって『デイ・アフター・トゥモロー』の再演なのである。いやはや。
かねて、気候の恒常性の崩壊による大変動というシナリオには端倪すべからざる奥行きがあると思っていて、予言の書もかくやという印象を残す同作の最新の達成であれば、北半球の壊滅も近いのではないかと震える。
夏の終り
当地には八ヶ岳南面を望む眺望があって、裾広がりの雄大な景色が示す存在感は無類のものといえるのだけれど、本日、中央道の高みから諏訪ICにかけて走行する車中から見えたのは、山々のピークの上空遥か、数倍のスケールで聳える積乱雲の様子。重量をもって崩落すれば一地方が消滅する規模であることは疑いなく、そのスケールにたまげたのである。夜半にはその遠雷が聴こえ、夏は終わりぬ。