『G線上のあなたと私』の最終話を観る。前回まででも十分にツンデレのデレという展開だったけれど、さらにその先のデレに行くためにキャラクターも少し違う世界線に行っているみたい。也映子の性格はここまで面倒ではなかったはずだし、真於先生に至っては別人に変容している。それもこれもどうやら中川大志を堪能するための仕掛けなのだけれど、まぁ、これはこれでいいや。マツコのあと、楽しみにできる火曜ドラマがあるというのは、大変幸せなことだと改めて思ったことである。
Month: December 2019
俺の話は長い OST
Apple Musicのニューリリースで『俺の話は長い』のサウンドトラックをオススメされたので、これを聴く。『アンナチュラル』でも名盤をものにしていた得田真裕の仕事で、劇中に使われていたサビのよさはわかっていたけれど、通しで聴くとテーマ曲がやたらとカッコいいので唸る。フルサイズで76分のサントラなのだけれど、BGMで使われた部分だけではいかにも勿体ないというものである。聴く。
時間よ止まれ
『いだてん』を観る。宮藤官九郎本人も顔を出した最終話は、実にクドカンらしい大団円で、2019年をもう締めてもいいかという気になっている。
10月10日の開会式当日が秋晴れの快晴であったことはあらかじめ分かったことではあるけれど、その21年前、土砂降りの学徒出陣式の記憶を重ねバンザイを上書きしようとは、このドラマでなければ語り得ない文脈で、なるほど、絶品というほかない。これこそ、物語の力でなくてなんだろう。面白い、実に面白い。
俺の話は長い
『俺の話は長い』の観る。次々と押し寄せる今クール最終回。生田斗真というひとについては、あまり意識していなかったけれど、『いだてん』の三島天狗に続いて本作の岸辺満は素晴らしいハマり役で2019年の収穫と言えるかもしれない。35歳ということなのだけれど芸歴は既に23年にというのだからジャニーズ恐るべし。
別れの時に向けて、いつものようにすすんでいく物語がよいとしか言いようのないのだけれど、馴れないスーツに身を包み歩いていく満がハーフマラソンの応援列に行き合ってエールを受けるクライマックスは、ちょっと神がかってるくらい素晴らしい状況構築で、頑張れ頑張れというのは好きではないけれど、居心地の悪さを呑み込もうというあの姿には誰だってエールを送らざるを得ないではないか。堪能した。
6アンダーグラウンド
『6アンダーグラウンド』を観る。マイケル=ベイ製のアクションに期待する全てが詰まった映画で、何しろファーストステージから蛍光グリーンのアルファロメオが爆走する色彩センスは余人に真似のできるものではない。車は宙を飛び、派手な爆発にも事欠かないのだが、この映像をそれほどコストをかけずに作ってしまうというのがこの監督の凄みであろう。
シリアを想起させる非道な独裁政権の転覆を図る6人のチームというストーリーは荒唐無稽とはいえ、シンプルな勧善懲悪の物語をきちんと作るのはもはや、マイケル=ベイの職業的責務と思えなくもない。
i7-8750H
仕事で使っているThinkPadをP1に乗り換えて、ちょっと型落ち気味ではあるけれど第8世代のCORE i7、Coffee Lakeに移行する。コアは6つということなので、旧型と並べて動かすと歴然とした差があるのだけれど、そういえば処理速度に困った記憶はこのところなかったのだった。メモリは16GBあるけれど、スロットに余裕があるので、いよいよ32GBの世界に分け入るつもり。ディスプレイは大きくなったのだけれど、全体に軽量化が図られていて、このスペックで1.7Kgというから持ち運びも苦にならない。時を経るなり、PCの顧客体験というのはまだまだ向上していくようである。
ザ・レポート
『ザ・レポート』を観る。9.11のあと、ブラックサイトで拷問による情報収集を開始したCIAの行為について、上院の監視委員会から調査を命じられた職員が、孤軍奮闘という状況で、妨害に遭いながらも数千ページの報告書を編んでいく。
公開が決まった梗概は黒塗りの検閲を経たものとなって、行政文書がそのように開示される現実は本邦でこそよく目にするようになったが、テロだCIAだという題材を扱いながら、しかしその実は三権の分立と法治主義を中心に据えた骨太のドラマで、彼の国ばかりでなく、我が国の今日的な政治と官僚システムの問題をも射抜くテーマとなっている。報道にはさほど大きな役割を与えていない脚本の意図からもテーマは明確で、であるがゆえに非凡な作品になっていると思うのである。
物語の最後、画面のなかに亡くなったマケイン上院議員の実際の演説が引用されるのだが、自分たちがどうあるべきかを示すのも政治であるという認識は重く、これに比べると本邦など極東の寡頭制国家であり、文明国を名乗るのも痴がましいレベルの政治水準にあるだろう。
アダム=ドライヴァーを主人公に配しながら、語り口は終始、抑制的でサスペンスの要素もほとんど存在しない。CIAがEITと呼ぶ拷問を導入するに至るくだりはカルトコメディかというような展開で、幼稚という他のない発想が官僚システムのなかで具体的なかたちを獲得していく流れはその凡庸さゆえに恐ろしい。さらに、これが委託契約というかたちで誰にもいうことができない税金利権となっているのだから、国というシステムに関わる悪など、結局はほとんど代わり映えのないシロモノで、であればこそ法によって制されるべきものなのだ。
主人公は作業場所として割り当てられた部屋にプリンターも紙も用意されていないことを問いながら、紙は厄介なものでなく法治に必要なものだと言うのである。
At our place, paper’s how we keep track of laws.
言うまでもなく、今日の本邦でこそ観られるべき内容の映画であり、あらすじ以上に普遍的なテーマを扱っていて、制作開始当初の”The Toture Report”というタイトルから黒塗りでTotureを消した判断も多義となって深い。
そして現実では、拷問にかかわったジーナ=ハスぺルが現在のCIA長官なのだから、考えさせられる内容も一筋縄では済まないのである。