グリーンブック

あらかじめ念入りに地均しされたシナリオに従っているはずの、「キリがいい」月末までの非常事態宣言延長を宣言する記者会見において、本邦の内閣総理大臣は8日を8月と言って論理的なおかしさにも気づかない。教養というような上等なものではなく、この人間には教育が身についていないのだから、馬鹿者が憲法改正を言うべきではないのだ。そして、全ての自粛をひとり10万円で贖おうというが如き品性の卑しさが透けているのをおくとしても、子飼いの記者に国でなく自治体の責任を問わせるセコさには我慢がならない腐臭がする。

専門家会議というのもよくわからない社会運動みたいになってきて「新しい生活様式」とかいう新用語が投入されてきたのも気持ちが悪い。責任回避の果て、不始末の元凶が国民であるという文脈の造成を開始したのであれば、そもそも目指すべき目標に到達することは決してないだろう。取り組みにいつも少しズレている印象を受けるのは一体、どうしたことなのか。

『グリーンブック』を観る。主人公のトニーがヴィゴ=モーテンセンだと気づいていなかったので、まず、そのことにびっくりする。『エール』で主人公の母親が菊池桃子であることも最近知ったくらいなので、こちらの迂闊はもとよりあるのだけれど、ヴィゴ様に下腹の出たイタリア系の用心棒という役回りを当てようというキャスティングの発想にまず驚愕するとして、画面では体つきからして南欧系となり、そのままイタリア系マフィアの構成員にしか見えない役者の凄さに恐れ入る。そしてこのロードムービーの相棒を演じるマハーシャラ=アリは本名がMahershalalhashbazで、聖書からイザヤの息子の名前をつけられたということを知って、おう、となっている。もちろん、マヘルシャラルハズバズは神林長平の『今宵銀河を杯にして』に出てくる戦車の名としても引用されているからには。

それはおくとして、映画は1962年当時の深南部の旅を題材として人種差別を扱っているわり、真っ正直な白人の主人公とインテリで鬱屈を抱えた黒人という設定そのものが批判されていたと思うけれど、無自覚で根深い差別を繰り返し描いているのは確かで、ロードムービーとしてもよく構成されており見応えがある。そして事実から題材をとりつつ、あり得なかったはずのこの心地よさこそ、結局は歴史修正的な態度だとして批判されるというのも何だかわかるのである。