興味ありマス

「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグについては、いまや凋落したという他ないNHKのニュースでも、さすがに無視できず取り上げられていたけれど、Twitter上では「興味ありません」というカウンター活動がわずかにみられたくらいで、政権擁護派も今ひとつ精彩を欠いている。例によっていわゆる有名人が政治的な発言をすることを咎める動きはあったようだが、政治的な発言をしないこと自体が極めて政治的であることに思い至らない迂闊を相手にすることはないと思うのである。

それにしても「興味ありません」というハッシュタグも、そのこと自体が興味を示しているのだから、政権に寄り添おうという向きは論理階梯の重層的な理解が苦手と見えるのが興味深い。ロジックが破綻しがちであればこそ、常に強行突破の粗暴に及ぶわけだが結局のところアタマが悪いのだろう。

いずれにしても「賛成します」という表明が出来ないところに本件の筋の悪さがあらわれていて、同時に国民の無関心こそ思う壺だということを端的に示していて興味深い。

#検察庁法改正案に抗議します

これはさすがに駄目だろうというのであれば、安倍政権のしでかしてきた数多の不法と民主主義の破壊はどれもそうなのだが、改正案と呼ぶのも腹のたつこの横紙破りも新たな罪過として決して忘れまい。これを許そうという公明党、維新の会の愚かさも自由民主党と選ぶところがない。

抗議のハッシュタグはこれまでになく多くなっているけれど、当方の年代だと三権分立は学校教育において民主主義を支えるシステムとしてかなり念入りに学習した覚えがあり、月並みながら教育こそ重要だと改めて思うのだが、やがて教科書から三権分立の文字が消されることさえ、ないと言えるものはいないのが本邦の現在だろう。

温故知新

引き延ばされた非常事態状況にありつつ、本当のところは、なし崩し的に平常運転に戻ろうとしているよねと声かけ確認したい感じなのだけれど、どうなんだ、みんな。結局のところ制圧と経済のバランスをみながら蛇行していくのが今後しばらくの生活だとして、本邦でのこれまでの達成を踏まえれば、冬にかけて到来するという第2波を乗り切れる気がしない。

『日本沈没2020』からの流れで、さいとう・プロ版の『日本沈没』を読み返して、これはなかなかいいじゃないかと古典の豊潤さを噛みしめている。以前は墨の多い画風自体が胃にもたれる気がしたものだが、いろんな意味で時代の雰囲気があって味わい深い。

日本沈没2020

Netflixで湯浅正明監督が『日本沈没』をやるという話を知って歓喜する。小松左京の原作は無論のこと谷甲州による『第二部』や、さいとう・プロや一色登希彦による漫画、1973年と2006年の映画に至るまで、ついに沈まなかった『日本沈没』でさえこれを支持するものであれば。

勢い余ってノベライズまで買い求めたのだけれど、東京オリンピックが行われた世界でその直後から始まるこの物語は『東京マグニチュード8.0』に『DEVILMAN crybaby』を継いだような超絶展開で、原作原理主義の立場からは物議を醸すことになるのは間違いない。しかし、こちらとしては湯浅演出によってこれがどうなるのか既に楽しみになっている。

12人の優しい日本人 を読む会

非常事態宣言も1ヶ月になろうかという本日、PCR検査陽性率の正確な把握に向けて集計方法を検討するという厚生労働省の方針が報じられ、今さら足し算の仕方が話題になろうとは。一方、子供たちがポリ袋で作った手作りの防護服1,400着を医師会に寄付という話が美談としてニュースになっていて、いよいよ敗戦の色濃く、平穏な自主隔離生活下における心理的ダメージは大きい。

YouTubeで配信された『12人の優しい日本人 を読む会』を観る。三谷幸喜の舞台をZoomで再演しようという趣向で、言われてみればうってつけの題材といえ、12分割の画面によるこの会話劇は単なる本読みを超えて素晴らしく見応えがある。機材は役者の持ち寄りとみえて音響品質の課題はあるとして、なお。事態の長期化が技術的改善をもたらせば、こうした演劇ジャンルの商業化はあり得るのではないか。何しろ、Zoomの無料ミーティングでもパフォーマンスとしては十分に成り立っているのだ。

改めて視聴すると、この演劇のセリフの強さは無類のもので記憶に残る言い回しが沢山あって、これが名作というものであろう。

空母いぶき

『空母いぶき』を観る。伊藤和典の脚本である以上はある程度、まともな内容であることはわかっていたので、話そのものというよりは、CGのクオリティを心配してちょっと躊躇していたのである。ベタ凪の海上戦闘はあまり観たくない。しかし、画面の作り込みはそれほど悪くなく、ストーリーに入れば問題なく観られるレベル。原作のマンガは未見。

いくつか並行する物語の起伏と戦闘行動のバリエーションも練られており、東亜連邦という不思議な漢字名称の仮想敵国も存在自体が後景化しているので違和感は大きくない。どちらかといえば、国民の生命と幸福を考えている内閣総理大臣とか、国連の実効的な存在感のほうが奇異に感じられるのだから、このような時代となってはフィクションも大変なのである。戦闘行動そのものが外交の一形態であるという枠組みをきちんと踏襲しているあたり、さすが伊藤和典というところなのだが、我が国の有事においては前線での戦闘に全てを丸投げしたまま外交と政治は漂流するであろうことが半ば証明されており、踏み止まるための努力は文字通り絵空事となるだろう。その点で今日的な論点をもつ映画であるには違いないし、ネトウヨが本能的に忌避したのもわかる。企画は福井晴敏ということなのだが、その意図は興味深い。

それら全てをおくとして、西島秀俊の秋津艦長はなかなか素敵。

グリーンブック

あらかじめ念入りに地均しされたシナリオに従っているはずの、「キリがいい」月末までの非常事態宣言延長を宣言する記者会見において、本邦の内閣総理大臣は8日を8月と言って論理的なおかしさにも気づかない。教養というような上等なものではなく、この人間には教育が身についていないのだから、馬鹿者が憲法改正を言うべきではないのだ。そして、全ての自粛をひとり10万円で贖おうというが如き品性の卑しさが透けているのをおくとしても、子飼いの記者に国でなく自治体の責任を問わせるセコさには我慢がならない腐臭がする。

専門家会議というのもよくわからない社会運動みたいになってきて「新しい生活様式」とかいう新用語が投入されてきたのも気持ちが悪い。責任回避の果て、不始末の元凶が国民であるという文脈の造成を開始したのであれば、そもそも目指すべき目標に到達することは決してないだろう。取り組みにいつも少しズレている印象を受けるのは一体、どうしたことなのか。

『グリーンブック』を観る。主人公のトニーがヴィゴ=モーテンセンだと気づいていなかったので、まず、そのことにびっくりする。『エール』で主人公の母親が菊池桃子であることも最近知ったくらいなので、こちらの迂闊はもとよりあるのだけれど、ヴィゴ様に下腹の出たイタリア系の用心棒という役回りを当てようというキャスティングの発想にまず驚愕するとして、画面では体つきからして南欧系となり、そのままイタリア系マフィアの構成員にしか見えない役者の凄さに恐れ入る。そしてこのロードムービーの相棒を演じるマハーシャラ=アリは本名がMahershalalhashbazで、聖書からイザヤの息子の名前をつけられたということを知って、おう、となっている。もちろん、マヘルシャラルハズバズは神林長平の『今宵銀河を杯にして』に出てくる戦車の名としても引用されているからには。

それはおくとして、映画は1962年当時の深南部の旅を題材として人種差別を扱っているわり、真っ正直な白人の主人公とインテリで鬱屈を抱えた黒人という設定そのものが批判されていたと思うけれど、無自覚で根深い差別を繰り返し描いているのは確かで、ロードムービーとしてもよく構成されており見応えがある。そして事実から題材をとりつつ、あり得なかったはずのこの心地よさこそ、結局は歴史修正的な態度だとして批判されるというのも何だかわかるのである。