サイダーのように言葉が湧き上がる

『サイダーのように言葉が湧き上がる』を観る。郊外のショッピングモールを舞台にしたオーソドックスな青春映画だけれど、今風のスマートなキャラクターデザインと、わたせせいぞうか鈴木英人かという背景画が相俟って醸す世界観が、アニメーションの表現にはまだまだ新しい境地があるのだと思わせる。レイアウトも練られた画面は非常に完成度が高く、思春期のコンプレックスやコミュニケーションの難度を、SNSや俳句を使って表現していく脚本もうまい。自由律のリズムがセリフをドライブしてダイアログをつくっていく心地よさがあるのだけれど、これがラップにによって実現されていたとすれば、物語の印象はまるで違ったものになったはずである。俳句という題材の勝利であろう。

主人公の行き場のない言葉が街なかの落書きとして表現されている演出も秀逸ではあるのだけれど、これが心象風景ではなく、タギング行為の結果として設定されているアナーキーぶりはちょっと笑う。エンドロールに落書きは犯罪だから真似しないようにというようなキャプションが出るのだけれど、これが実写であれば、とんだ世紀末風景と映ったはずである。その点でもアニメーションという手法が正しく選択されている。佳作といえるのではなかろうか。

この日、東京都が情報公開で非開示となる内容を、これまでの黒塗りではなく、白塗りの枠付きとするように情報公開要綱を改定していたというニュースを知る。一見すると試験問題のような体裁の検閲済み書類は、しかし非開示部分が多すぎて論文用紙のようにもみえる始末。姑息といえば恥じ入るほどに姑息で、自分の子供には話せない仕事をしている都職員も気の毒だが、これを為す官僚とそのシステムが状況におかれれば、非人間的な振る舞いを平気で行うであろうことは想像に難くない。戦前というのはちょうどこんな風から始まったのではあるまいか。