中抜き

聖火といえば走り継ぐものだとばかり思っていたのだけれど、当地でも市の中心地を100メートルばかりずつ受け渡しながらのイベントだったようである。田畑政治の時代はだいぶ遠い。次の日には車で隣県に移動という段取りで、ベルリン大会から始まったという聖火リレーがそもそも国威掲揚を目的としていたとして批判される文脈に比べると凄みに欠け、のべ46日間、2万6,000キロの道のりを10万人が繋いだという1964年の東京オリンピックに比べると茶番としか思えず、なぜコロナ禍での実施にこだわっているのかと考えれば、スポンサー料の徴収や業者に金を落とすためというあたりの理由しか思い浮かばない。1984年のロサンゼルスオリンピックも商業主義と批判されたが、税金は使われなかったことを考えると、何もかも中間搾取のために構成されている本邦のありさまには、よりディストピア感が強い。恥ずべきである。

まなつおにまつり

『ゴジラ シンギュラポイント』の第2話を観る。初回にはなかったオープニングタイトルがまずカッコいい。しかも主題歌はBiSHである。本編も予兆としての怪獣現象をその後の報道の演出まで含めてお約束通りに描いて、あがる。「遠からん者は音にも聞け」と文字通りの名乗りをする脚本も好きである。あらゆる怪獣要素が詰まっており、押井守と伊藤和典の趣味的な影響がうかがわれる世界観が素晴らしい。2回観た。

兵庫県の新規感染確認は8割がイギリス変異株という調査があって、最近の急増はそれをよく説明しているのだけれど、「春休みの影響もあり、若者がコンパ」などと言っている分科会会長がいて驚く。この話法で魔女狩りを続ける限り、話は循環して建設的な取り組みには決して到達しないであろう。社会を分断によって操作しようという発想をこそ反社会的というのではないか。