非理

本気で五輪を強行しようとしているらしいことにまず驚くのだが、その意欲の表れとして胡散臭い観測気球がいくつも上がっていて、観客に陰性証明書を提示させようというそのうちのひとつは、そもそも広範検査を否定してきた厚生労働省の流れからすると完全な自家撞着で、もともと道理を外れていた輩が一周まわるついでに全ての理屈を薙ぎ倒していくので、事態はますます混迷の度を深めている。

そして陰性を証明するのがPCRでなく、国産抗原検査であれば、空港検疫が事実上のざるであったことと同様、感染を速やかに広げ第5波か、ことによったら第6波を形成することになるだろう。それにともなって必ず出る死者は、オリンピックによる人流がなければ死ななくても済んだはずの人間たちなのである。

今ここにある危機と僕の好感度について

『今ここにある危機と僕の好感度について』の最終話を観る。中身がありそうでない男を演じる松坂桃李の演技は、既に名人芸の域にある。松重豊の三芳総長は、大学は営利企業ではないと断じて、この風刺色の濃いドラマが社会共通資本、ひいては国そのものを射程に入れた物語であることを明らかにする。

野木亜紀子の脚本がそうであるように、リアルにつながる文脈をもとうとする優れたドラマは、時に現実を引き寄せることがある。「準備に4年」をかけたイベントの開催可否をめぐる騒動の渦中でのコウスケ君の怒りは、オリンピックを睨む今ここの気分にシンクロして現下のこの社会を指弾する。

でも、そのためには何人かは犠牲になってもいいってことなんですか? クソじゃないすか? そんな社会

そして三芳総長は、新自由主義やそれに寄生する競争論者の戦略が間違っているという。

確かに競争は熾烈です。しかしだからこそ、我々がこのまま生き残っていけるとは、私にはどうしても思えないのです。なぜならば我々は、腐っているからです。

結局のところ、競争に勝つことを題目として効率を主張し、何なら弱者を切り捨てることを厭わない政治的主張は、実態として腐敗しているがゆえに解決策たり得ない。

みなさんもうお気づきでしょう。我々は組織として腐敗しきっています。不都合な事実を隠蔽し、虚偽でその場をしのぎ、それを黙認しあう。何より深刻なのはそんなことを繰り返すうちに、我々はお互いを信じあうことも敬いあうこともできなくなっていることです。

そのシンプルな事実を指摘して、しかし意見の対立する須田理事を解任しない結末こそ、舞台となっている大学組織が、国家の隠喩であることを示している。その同じ船に乗り合わせた以上は、折り合いをつけてやっていく他はないのだ。

二正面作戦

ここぞとばかりに意気込んで、しかしイキっているというよりは、ぎこちなく、それ以上に戦略センスの決定的な欠如を露呈しつつ、感染防止とワクチン接種が「二正面作戦」だと本邦の首相はいう。

ワクチンは高齢者接種の段階で難航して、感染拡大予防というよりは重症化防止のレベルにとどまっているし、徹底検査を伴わない自粛頼りの非常事態宣言は戦線すら構築できずにいる持久戦で、施策が連携しない言葉通りの二正面作戦であるがゆえに国民の生活は疲弊しているのである。この国がコロナの戦いで攻勢であったことはなく、戦力分散の愚をいたずらに重ねていることの自覚があれば恥じ入らずには使えない言葉であろう。

三体III 死神永生

予約して買い求めた劉慈欣の『三体III 死神永生』を読んでいる。上下巻しめて4,000円、三部作の進行につれて分厚くなるという正常進化の様態で、時間はやや巻き戻って三体危機のはじめの年月から語られる。これがどこに向かっていくのかは読みすすめるほかなく、予想もしない物語となるに違いないのである。開巻近く、「我が赴くは星の群れ」計画が発動して、そういえば著者は『銀河英雄伝説』のファンだった。楽しみ。

緊急事態の再延長がまたしても空疎な言葉とともに宣言され、予定されているオリンピックの一ヶ月前に何が何でも打ち切って蔓延等防止重点措置に移行しようというところまで透けているけれど、どうやら首都圏はいわゆるインド変異株の感染拡大初期にあって、あまり役に立っているとは見えない専門家ですら政府の見解と一線を引き始めているみたい。

緊急事態宣言による絶対数の低下を踏まえてこれを6月20日に解除することになれば、実効再生産数の高いウイルスが急激に拡大した大阪の3月の状況と同じことになる。ちょうど開会式のあたりで修羅場を演出しようというのも最早、わざとやっているとしか思えない愚策だが何も考えていないのか。

りきがくのげんり

『ゴジラ S.P』の第10話を観る。物語はいよいよ佳境。時空や宇宙そのものがテーマとなり、平行宇宙を示唆しているこの物語があらゆる怪獣もののコラージュでもあるのは胸熱。そして情報が時間軸で組み替えられて情報となる曲芸を、アニメで実現しようとは。すげえよ。

オリンピックはIOCの面々が登場して、歴史に残るセリフが次々、報道されている。「総理大臣が拒否しても五輪は行われる」「アルマゲドンが起きない限り五輪は止まらない」は「誰もが犠牲を払わなければならない」と同様に悪の結社の体質を露わにして、まるで進駐軍かのような尊大さを示している。自称保守や国家権力がこれに激怒しないのは、共謀共同正犯を自認しているからに相違ない。オリンピックは全体として歴史的使命を終えたということでいいのではないか。

Presence

『大豆田とわ子と三人の元夫』の第7話を観る。前回、大豆田とわ子と三人の元夫がなぜ別れることになったのかについては、当人不在の餃子パーティで概ね明らかになっていて、構造化された物語の鮮やかな語り口に感心したものだけれど、第二章は幸せになることを諦めない未来への運動が語られることになる。キーマンとして登場したオダギリジョーが演じている小鳥遊は、今のところサイコパスにしかみえないが、小鳥が遊ぶとかいてタカナシという名前が重要で、不在の存在を強く感じるシリーズ後半となるのではないか。Presenceというタイトルのエンディングテーマも見どころであると同時に、何やら示唆的ではある。面白い。

中止だ中止

オリンピックで人流が増えれば変異株がなくても第4波を超える感染者数の再拡大が見込まれるというシミュレーションについてのニュースが流れ、似たようなタイミングでアメリカが日本を渡航禁止対象国としたことを知る。人口あたりの感染者はそろそろ逆転され、いや、比較的には検査数が少ないことから既に逆転されているだろうことまで勘定に入れれば、相対的なリスクが高いのだから当然の帰結として、普通ならこれで五輪中止の流れに傾くだろうことを期待している。

CDCの判断はおくとして、さきに訪米した韓国の大統領との扱いの差からは本邦の首相が相当下に見られていることは明らかで、つまり民主主義という価値観を共有できるかどうかという尺度からすれば、この政権は真の同盟国ではないとバイデン大統領が考えていても不思議はないのである。これは最後通牒であるという見方もできる。

しかし、そういう状況で都内の児童80万人を観客として動員する話が真顔で語られるのも、税金で計上された50億円に迫るという費用を組織委員会を通じてプライベートセクターに還流させようという企みの一環であるに違いないし、もちろん旅行会社が間に入って中抜きをしているということなのである。オリンピックは集金マシンであると同時に、公金を抜き取るための装置であって、何もかもが口先だけの本邦にあって、そんなシステムばかりは猛然と機能している。民主主義という価値観を共有できない政府であることは確かであろう。