認知的不協和

連日、耳を疑うような発言ばかり報道され、どうやら末期にある本邦で今さら、ワクチン2回接種を条件とした行動制限緩和を検討すると官房長官が言ったとかいう話で、まず行動制限などしていないではないかという訝しさは措くとしても、デルタ株がワクチン接種者によって伝播していくという知見が蓄積しつつある現在、今の発言がそれかと、またしても驚く。国際標準と科学的知見には一切、忖度しない我が国のコロナ対策だが、これでは負け戦も当然というものではないか。

この日、まず自宅療養というスガ発言がいう「体制整備」がいつのことかは知らないが、さっそく搬送困難事案が急拡大していることが伝えられる本邦のイマココ。しかし、ハイライトは、大阪の維新府知事の「大阪はこれまで通り入院が基本」という厚顔をメディアがそのまま流すというあたりである。医療崩壊を不可視化するというのは、まさにこのことであって、これでは大阪の第4波で犠牲となった人たちがまったく浮かばれない。

ニュースがポピュリストの道具となっている本邦では、歪んだ世界観において批判なく決定が行われ、その帳尻は国民が合わせることになる。

医療崩壊

この日、総理大臣がしれっと「重症患者や重症リスクの高い方以外は自宅での療養を基本とし症状が悪くなれば入院できる体制を整備する」と会見で述べて、事実上の医療崩壊を是認する。基本的に中等症からの死者が多く、症状が恐ろしく急速に悪化するのがこの病であり、入院しようにもできないのが現状なのである。中国なら突貫で病院が建築されるところ、基本は見殺しというのが美しい日本の姿だ。自助といい丸投げしかできず、棄民をためらわない為政者を、無能と言わずしてなんとする。この政府の酷さには下限というものがない。

今日、見かけたRetweetでは現場の医師が、病床が一杯になると入院調整の電話も受けられないうえ、新たな患者もないから、医療崩壊そのものは考えられているより静かにやってくるという内容を投稿していたのである。

その頃、自宅で酸素吸入も受けられずにいるひとりひとりを、この国では不可視化するシステムだけが機能していて、公がそれをもっと密やかに回そうというのだ。

いちごの唄

『いちごの唄』を観る。岡田惠和が銀杏BOYZの楽曲にインスパイアされて書いた連作短編小説の映画化。峯田和伸がイラストを描いて共著となっているこの原作の映像化に投入された女優陣の分厚さにまず驚く。2019年の映画だが、石橋静河、清原果耶、岸井ゆきの、蒔田彩珠、恒松祐里を今キャスティングするとなったら、盛り過ぎといわれるのではなかろうか。

七夕の日に年に一度だけ会うことになった二人の物語のなかで、舞台となる環七通りは天の川に擬えて撮られているのだが、銀杏BOYZの歌と同じくその美には実存と手触りがある。主人公を演じる古舘佑太郎のキャラクターは峯田和伸に当て書きしたようにちょっと極端なのだけれど、この世界観において悪くない。

この日、日曜日の各地の新たな感染確認数は、これまで曜日によって生じていたアノマリーを無視して振る舞い始める。これがヤバいと感じられないとすれば、そもそも危機管理のアンテナが立っていないか、アタマのネジが飛んでいるのであろう。

百貨店の食品売り場を中心としたクラスターではこれまでと全く異なるレベルで感染の広がりが確認され、デルタ株の異質な感染力を可視化する。そもそも水疱瘡と同じ程度の基本再生産数であるとするならば、誰もが子供のうちに一度はかかるくらいの威力があるということだ。店舗に自主休業を求めるタイミングがあるとすれば今だが、そうした動きにならないのもオリンピックの弊害であるには違いない。知事会は県境を跨いだ移動、帰省の自粛を求める国民向けのメッセージを検討しているそうだが、したがって通勤を行うなという強さになければ、この感染爆発が収束する見通しは立たないだろう。