ドント・ルックアップ

Netflixで配信の始まった『ドント・ルックアップ』を観る。ディカプリオも嫌いじゃないが、何しろジェニファー=ローレンスが好きである。すばる望遠鏡で地球に接近する彗星を発見したミシガン州立大学の大学院生とその教授が、Extinction Level Eventの予測をホワイトハウスに伝えるが無視され、テレビショーで訴えるがスルーされて、事態は政争の具とされていく。予告の段階から楽しみにして、143分をひと息に。

人類は滅びる。その具体的な警告に耳を貸さず、積極的に否認して陰謀論を唱えるのは何も本作に登場する女性版トランプといった設定の大統領ばかりではなく、地球を滅亡に導く彗星は無論のこと地球温暖化の現象そのものでもあるから、おもしろうてやがて悲しき話ではあるのだ。ここに描かれている人々が愚かであるのならば、それは我々の写しなのである。ほぼこの世界で起こっていることと同じである以上は、笑うに笑えないこの世の終わりではあるものの、大作というレベルの作り込みがされているので見応えがある。

異邦人の虫眼鏡

その長い待機については半年に一度くらい言及していると思うのだが、予告された『図書館の魔女』シリーズの新刊『霆ける塔』を待って既に5年、公式アカウントが令和元年と言ってから3年、2022年も終わろうかというこの日、『別冊文藝春秋 電子版』で連載2回目となる『異邦人の虫眼鏡』を読む。フランスの大学都市トゥールで、パンデミックのあとに一軒家を借りて農村の生活を送る作家の、1回目は庭の草木、2回目は自家製和食材についての博覧の記録で、まずその内容は面白いのだけれど、家主には執筆がすすんでいるかと問われて嘘を吐いたという一節があって、おいおいとなる。その諧謔がいいのだということは理解するとして、我々はあと幾つの夜を越えなければならないのか。

家人についてのささやかな言及は新鮮で、いくつか載せられた庭の花の写真については撮影者としてきちんとキャプションをつけているあたり、学究の人らしさがあって好ましい。

タダ乗り

この日、大阪でオミクロン株の市中感染が確認されたというニュースが流れたが、いわゆる水際対策が抗原検査を主として続けられている以上、すり抜けは発見と同じくらいあって、感染自体は既に数桁多いオーダーで広がっているのではなかろうか。施設隔離の方針はいいとして、実態としてはおそらく穴はたくさんあり、であればこそ多重防御を旨とするスイスチーズ戦略が必要となるのだが、本邦の場合、市中感染が始まれば水際対策は無駄とする妙な諦めのよさが幅を利かせがちなので、これから総崩れとなる流れもなくはない。年明けの期限にいわゆる水際対策の停止を求める圧力は常にかかっているのだろうけれど、このあたりの見識をどう示すかが政権の試金石となる。

思い返せばスガ政権下においては、このチャンスを逃せば解除できなくなるかもしれないから解除という超絶論法で非常事態宣言を緩和したことがあって、公衆衛生上の対策が経済の要請によって駆逐される実例はこの2年で十分に積み上がっている。それは政策プロセスが一部のフリーライダーに牛耳られているというであろう。

同じ日、馬鹿げたアベノマスクの馬鹿げた在庫を廃棄するという表明がされたが、アベ不可侵ではないという一点において敵の敵は味方という妙な状況が生まれている。困ったことに維新や国民民主よりマトモにみえることについては否定できず、残念ながらリベラル野党の失地回復はますます困難になっている。

誰にも言えない秘密

引き続き『その年、私たちは』を観ている。今週、第5話はウンの幼馴染ジウンのモノローグ回で、回想によって感情をドライブしていくこの物語のよさが全編に詰まっている。事件も騒動もないのに話の密度が濃くてじっと見入ってしまうのがこのドラマで、相変わらず振り幅の大きい時間軸を行きつ戻りつしながら、その経過をきっちり感じさせる演出と役者の仕事のレベルが高い。そして『街の上で』ではどうでもいいとまで言われた時間の概念が、ここでは中心的な主題となっていることについて考えている。

この日、ヒト脳オルガノイドに電極を繋げて壁あてのテニスゲームを学習させたという記事を読む。感覚野と運動野が連携して学習を行い、AIに比べてもその学習の速さが特徴ということなのだが、そのコンセプト自体に己が内面を震撼させる何かがある。これが禁忌というものではなかろうか。そして、人間の脳を模すことによってそれが可能であるならば、AIというものもますますヒト脳に近づいていくことになるだろう。

同志少女よ、敵を撃て

『同志少女よ、敵を撃て』を読む。アガサ・クリスティー賞の本年度の受賞作という触れ込みで、独ソ戦を戦ったソビエトの狙撃兵という珍しい題材を扱っている。映画ならジュード=ロウの『スターリングラード』、ノンフィクションなら『戦争は女の顔をしていない』を想起させるところがあって、しかし和製小説ではこその読みやすさもあり、よくできているのではなかろうか。いきなり直木賞ということにはならないだろうけれど、エピローグに船での帰還が描かれる冒険小説が殊の外、好きである。そのあたりの定型もわりあい踏まれている様子がある。

アガサ・クリスティー賞が幅広いジャンルを募っているとはいっても、このミステリ作家の名を冠した新人賞としては題材が遠いのではないかと思っていたのだが、「敵」とは何かを叙述的に解明し、登場人物の動機に焦点を当てた物語だと解題されれば、なるほどという気もする。

この日、米国ではオミクロン株によって1日あたり100万人の感染者が出るのではないかという予想が語られる。これまでべらぼうなペースで拡大しているからにはないこととも思えず、重症化率がやや低かったとしても、これから大変な厳冬期を迎えることになる。

街の上で

『街の上で』を観る。下北沢の古着屋で店番をする荒川が、朝ドラのように限られた舞台を行きつ戻りつ暮す日常の中に、人間の関係性が妙に克明に浮かび上がってくる。登場人物のひとりが「いちばんどうでもいい、時間の概念」という通り、因果ではなく縁にこそ物語があって、それがもう妙に面白い。もちろん物語としての時間軸は存在するのだが、何週間か冷蔵庫にあったチョコレートケーキも、それを食べてしまったとしたら、誰かと食べたという関係性しか残らないというのがこの物語のルールであろう。同じようにして案外、論理的に話が編まれている。

さまざまな創作が連鎖して網目となり、地層のように積み重なってきた下北沢の街で、人の営みが同じように豊穣な網目を作り出す様子を描き、文化の構造そのものを指し示そうというのも目論見のひとつであろう。それは首尾よく成功して、繋がったノードも繋がらなかったノードも、全体としてはささやかなのに、それぞれが形良くいちいち腑に落ちるエピソードになっている。

主人公の荒川青を演じる若葉竜也の佇まいは秀逸で、先行きを読むことができないこの物語で、事件性を予感せずに観ることができることの功績はこの人にあると思う。

揺り返し

この日、インペリアルカレッジのオミクロン株に対するワクチン効果予測が伝えられる。追加接種によって持ち上がった発症予防の効果は力なく降下して定期的な追加が必要になりそうだが、実際のところ、3ヶ月に一度の追加接種など無理筋というものだろう。オミクロン株がデルタ株に対して重症化しにくいという根拠は見つかっていないという指摘も重なり、未知の段階で語られてきた楽観論に冷や水を浴びせかけるターンが来ている。

問題はオミクロン株に特化したワクチンが普及しなければ、これまでのゲームプランは成立しないという理路である。いったんワクチンによるウィズコロナという方針を開始しておいて、これを巻き戻すことになれば各国の政権は急速に支持を失っていく。特に民主国家でこそ、パンデミックを遠因とする求心力低下がすすみ、騒動に乗じてポピュリストや急進派が権力を握ることになる。数年後の世界は一層、不安定な場所となっているだろう。