少し前にジジェクが文化的な不文律の重要性について熱弁をふるっている動画が流れていて、それはポリコレの愚かしい側面について言及する文脈だったけれど、暗黙のルールが明示的なルールをどれほど真面目に受け止めるべきかを決定するという卓見には思わずなるほどと感じ入ったものである。不文律があるということを軽視すべきではない。
元首相の殺害事件について、犯人の供述から「特定の宗教団体」もしくは「特定の団体」への恨みが犯行の動機となったという話がしきりに報じられていて、しかし報道はその団体が安倍政権下で団体名の変更を果たした旧統一教会であることを明言しないことが話題となっている。1990年代に霊感商法を話題にして批判を展開していたあたりからすると、権力層への浸透は大いに進展したに違いないのである。何より、この不文律の存在はメディアのメッセージへの信頼を左右する。
そして、この禁忌自体は実に多くのことを説明する。自民党の政治的態度の多くがカルト教団の価値観を踏まえて決まっているという見方には膝を打ったものである。これは、観察の上ではその補助線も重要だとわかっている米国の現代政治の相似形で、自国のことを理解するのは、かえって難しいのかも知れないとさえ思ったものである。カルトはその現代的な適応能力によって、政教分離を骨抜きにしていくが、そうした構造自体は不変のものである。