キリスト教の伝統的な価値観では、パン屋の息子はパン屋になるべきということになるという話があって、つまりその成立が階級社会においてであった以上は、現状肯定のロジックは思想として内包されており、敬虔な信者ほど教育や教養の価値を認めず、身分を固定する方向に行きがちというのも、まぁ、ある話だと思うのである。信心深い人間が、老いて差別主義者になることは多いが、結局のところ、もとからそうだったのではないかと思うことにしている。
維新の議員が高等数学は学校に不要などと言うのには、どうやらそうした奥行きもなく、ただ自らが愚かであることを認識できない程に愚かだからという点に疑いはないのだが、同時に差別主義者であるから外形はまったく同じだったりする。
かように、広くみると権威主義的な輩というのは愚民化に熱心で、であればこそ民主主義を機能させる基盤として、憲法は社会権としての教育を受ける権利を定めているのである。国会議員が教育の内容に口を出すことこそ、身の程を弁えるべきであろう。