参議院選挙を週末に控えたこの日、安倍元首相が応援演説に入った奈良で銃撃を受けて死亡する。昼前に速報で伝えられた直後から、搬送時には心肺停止という情報が添えられていた。午後には容疑者の実名が20年前の職歴とともに報道され、しかし同時に政治的な意見によるものではないという、その時点では明らかになっているはずのない見解までニュースになっていたことが、ざわざわと事件の特異性を感じさせる。
17時過ぎに死亡が確認され、海外のニュースはAssassinatedという言葉でこれを報じる。本邦の報道はこれを暗殺と言わないのだが、憲政史上最長の在任期間を務めた元総理大臣の暴力的な死をそう表現しないのは何故かと考えている。
意図の文脈が明らかになっておらず、歴史の審判を経ていないという感覚があるのかも知れない。それはある種の怯懦の裏返しだろう。行為とそれを為したものによる事件だということをきちんと語らなければ、悪人なら死んでもいいという空気がこの事件を起こしたという言説がまかり通ることになる。