最後の宇宙飛行士

ハヤカワの新刊『最後の宇宙飛行士』を読み始める。宇宙開発の熱狂を挫く火星探査計画の失敗あと、悪化する生存環境と人類の閉塞を感じさせるやや暗い未来、自発的に制動する天体が太陽系に向かっていることが発見される。2017年の恒星間天体オウムアムアも想起させるこの序盤、ハードSFとしてのヒキも雰囲気も十分という感じなのだけれど、惹句には「ファーストコンタクトSFホラー」とあって期待は高まる。

『ワールドウォーZ』(今となってはこのタイトルは黙示のようだが)みたいなオーラルヒストリー体のフィクションが大好物なのだけれど、本作もそれに近い断片が幕間におかれる『巨人計画』風の演出で、顛末が『エイリアン』でも『イベント・ホライゾン』でもそれなりに盛り上がるのではないかと思うのである。期待しつつページを繰る。

特別編

GWが終わっての通勤初日、かねて楽しみしていたバイリンガルニュースの特別編を車中で聴く。Rebuildの宮川さんの久しぶりの出演で、モチベーションの原資として3時間の長尺ものを聴かずにとってあったのだ。短めの映画なら2本は観られる長さである。数回の通勤の楽しみにしているうち、慣性力が働くといいのだが。これはバイリンガルニュース側の配信なので、編集なし、とって出しの雰囲気で途中の通信トラブルも入っており、ファンにはそこも面白い。

この日、ロシアでは対ドイツ戦勝記念式典が行われる。戦争状態にあるという宣言が行われるのではないかという予想もあったけれど、事態を方向づけるような演説はなく、式典自体も悪天候の影響を受けたという。一方、時期を同じくしてアメリカでは対ナチス戦以来のレンドリース法にバイデン大統領が署名する見通しで、事態はロシアの思惑すら大きく超えてすすんでいるようである。我々は既に第3次世界大戦のさなかにあるという煽り気味のニュース記事を読んだけれど、あとから振り返ればそうだったということもあるかも知れない。

鎌倉殿の13人 #18

『鎌倉殿の13人』は壇ノ浦の戦いを描く前半のクライマックス。このところ仲間たちの愉快なエピソードは鳴りを潜めているところ、ひとりガッキーが場を和ませようというのである。有難い。

舵取の射殺は凄惨な戦いを義経の個性に寄せる象徴的な扱いで描かれ、腰越状は偽作説に近い扱いだが、ここに平宗盛親子の情や義経との交流を絡めつつ、宗盛自身も気高さのある人物としているのは三谷脚本オリジナルの文脈でやはりうまい。

この時節に非戦闘員を巻き込む戦の話が重なるとは制作サイドにとっても予想外のことだったに違いないが、優れた物語は時代と共鳴することがままあるというのは、かねて確信しているところである。義経登場の折の、腰越での話もきっちり回収し、悲劇の予感はいや増しつつ次週に続く。

この日、連休の人出を反映してか、COVID-19の新規感染者数は増加に転じたように見える。これまでそれなりのペースでの減少を続けていた傾向からの反転であれば、やはり人流の影響は大きいのである。沖縄は既に厳しい状況にあると聞くが、この数日で今後の方向が明らかになってくるだろう。もうすっかり終わったような雰囲気だけれど、オミクロンの病原性もさほど低くなかったという知見が見え始めているようである。この連休は3回目接種の効果がいちばん高い時間帯に重なっていたと思うけれど、今後はそういうわけにもいかないのではないか。

ひらいて

『ひらいて』を観る。綿矢りさの同名小説の映画化。山田杏奈主演というところがポイントだけれど、この木村愛は『私をくいとめて』でのんが演じた黒田みつ子に匹敵するハマリ役ではないだろうか。表情と視線の演技が素晴らしいし、それを追うカメラの仕事ぶりも見事。撮影は『街の上』や『サマーフィルムにのって』も手がけている岩永洋。

主人公が今さら見たくもない高校時代のあやうさを晒す話というのは、実を言って敬遠したいところだけれど、小説の会話を持ち込んだダイアログは演劇的な独特のバランスがあって観られる。キャラクターに固有の核があればこそ、話は落ち着くべきところに落ち着くからである。綿矢りさの小説が好んで映画化されるのも、わかる気がする。そして、山田杏奈はこの俳優にしか出来ない仕事をしていて、美雪役の芋生悠もそれに見合う存在感を示している。日本映画ではこのあたりの役者が主軸になっていくのではないだろうか。

本編とは関係のないことだが、2021年の映画にもかかわらず、この映画の公式サイトがhttpsに対応していない様子で、このパブリシティのレベルではせっかくの良作がもったいないと思うのである。そんなことがあるのかというレベルだが、いったい、どうしたのか。

光を追いかけて

『光を追いかけて』を観る。1991年に秋田県内の広い地域で正体不明の光る物体が目撃され、翌朝にはミステリーサークルも発見される騒動があったということを知った上で、観たほうがいいような気がする。

CMディレクターである成田洋一が監督を務めた本作は、何よりキャスティングのよさが際立っており、自身も秋田県出身というだけある美しい田園の光景の撮り方と相俟って、そのままポカリスエットの長尺CMを観ているような感じ。中島セナが大人になりきる前に同年代を演じた映画として、そのうえに長澤樹という個性を見出した映画として評価されることになるだろう。

いい写真を撮影する心得に光に向かうというのがあるけれど、その通りファインダーはやや低めに太陽の光線を捉えて、収穫時期の田圃の黄金を映しとる。撮影は念の入ったもので、画面の美しさには力がある。

とはいえ、この作品のよさは映画というより映像作品のそれではなかろうか。キャラクターはどこまでも類型的であり、ストーリーそのものはあまりに凡庸で、おそらくセリフなしでも理解できるくらいの話だし、最後に花卉栽培で産業復興というレベルでは、ばかにするなという向きもあるに違いない。そこにUFOの話が馴染んでいるわけではないので、なぜミステリーサークルが描れるのかという疑問は当然生じて、しかもそれは観客の読解力の不足によるものではないのである。その出自が現実の騒動だったからといって、理解が深まるわけではないのだが。

ブロードウェイとバスタブ

『ブロードウェイとバスタブ』を観る。アメリカの高度成長期、企業が競うように制作したけれど一般にはあまり知られていない企業ミュージカルを題材としたドキュメンタリー。華やかなブロードウェイの舞台と背中合わせに実在したショービジネスを紹介して、発見の驚きばかりでなく、そこに働いた人たちの人生にまで光をあてて奥行きのある話になっている。よく出来ているのである。

有名なコメディアンのデイヴィッド=レターマンのもとでスタッフライターを務めるコメディ作家のスティーブ=ヤングは、無趣味で仕事抜きの友人関係もない人間だったけれど、1960年代にさまざまな企業が制作したミュージカルのレコードに興味を持ち、その蒐集を始める。

かつてアメリカの大企業では、ブロードウェイのミュージカルを模したショーを制作する潮流が存在した。それは劇場で公演されるものではなく、営業部門の年次総会などで演じられ、存在が公表されることもなく、チケットや公演はもちろんなし。一方で『マイ・フェア・レディ』の制作費が45万ドルの時代に300万ドルもの予算が充当され、業界の人たちにとってはいわゆる美味しいビジネスでもあり、一流のスタッフもそこに名を連ねて、役者たちにとっては得難い勉強の機会にもなっていた。華やかな成長の時代、大企業がブロードウェイの才能の事実上のパトロンとなる仕組みで、年に数回出演するとニューヨークでの生活を賄うことができたという。歌詞は身も蓋もないものが多く、たとえばシリコンの歌は180もの用途を5分55秒の尺にすべて盛り込んだようなものだったけれど、それに一流の曲がついたわけである。

極北と目されるのが『Bathrooms are Coming!』で、アメリカン・スタンダード社が1960年代に制作し、洗面設備における革命の歌 “It’s Revolution”に始まってポール=リヴィアとサミュエル=アダムズが便器を求めデラウェア川を渡る歌が収録されたアルバムが残されているという。ヤングは、関係者へのインタビューを試み、当時の映像も入手することになる。このあたり、奇妙な情熱に感化されて、その発見には手に汗握るけれど、当人はあくまで落ち着いた話ぶりだったりするところが感動をさらに盛り上げる。この人柄は得難い。

そして、公然と評価されることは決してなかった企業ミュージカルの資料本をヤングが発行し、かつての再評価が行われるのを待っていたかのように関係者が物故していく終盤、自身の退職も重なってしんみりとしたところに、人生の賛歌となる本格ミュージカル風のクライマックスが用意されているのである。よく出来た構成で見どころが多い。高評価であるのも不思議はない出来栄えで大いに感心した。

ゼロコロナ

あらゆる無理筋を通して、中国はゼロコロナ政策を引き続き堅持の方向だけれど、中国製の不活性ワクチンの効果の是非は問題ではなく、そもそも高齢者のワクチン接種率が低いことが問題だと指摘する記事を読んでアタマの風通しがよくなる。

年齢層の高い人々には西洋的な医療やワクチンそのものに根強い忌避感があって、上海では60%程度の接種率にとどまっているという話が本当なら、検査によってこれを抑え込もうという判断にも、ただ面子の問題以上に、それなりの切迫感があるということかもしれない。

そのCOVID-19もこのゴールデンウィークにはなくなったかのように地元観光地は賑わっていて、4月には縮小開催となった御柱祭も里曳きはほぼ通常通り行われている。パンデミックの3年目は各国がそれぞれの対策の独自性を競っているかのようだけれど、本邦のそれには、忘れることにしたという要素が入っている気がしてならない。