推し、燃ゆ

宇佐美りん『推し、燃ゆ』を読む。ルシア=ベルリンの小説をつい想起してしまうのは、名前が韻を踏んでいるからばかりではなく、文章によるモンタージュの印象が似ているからだと思う。切れ味のいい文章は流れるように読めるのだけれど、主人公の抱える問題が炙り出されるバイト先の場面の構築には感心する。

全体に言葉の感覚は研ぎ上げられている。スマートフォンは「携帯」と表記されていて、それについてはやや違和感があったのだけれど、そういえばしっくりくる言葉を思いつかない。日常ではiPhoneと言うけれど、これを置き換える一般名詞の持ち合わせがないようである。

この日、尼崎市の全住民の個人情報が格納されたUSBを、飲酒して寝込んだ外注先の協力会社の社員が紛失したというニュースが流れ、その会見でパスワードの桁数とそれが英数字の組み合わせであることが開示されるという、本邦のデジタルトランスフォーメーションの現在地を指し示す一連の事件が起きる。パスワードは年に一回更新されていたという駄目押しの自供を踏まえて、Amagasaki2022であるに違いないという指摘には笑ったが、この一幕では久しぶりにネットの集合知を見た気がしたものである。この大喜利のどこかに事実は潜んでいるだろう。

洪水

梅雨のさなか、曇天にもかかわらず日本は各地で30度前後の気温となり、気候の様子は夏に向けて不穏な雰囲気が漂っている。世界をみるとインドでの大洪水が小麦の輸出にブレーキをかけた記憶も新しいうち、同国を再び大雨が襲い、バングラデシュでは過去122年で最悪といわれる洪水に見舞われ、中国ではこの数日、南部の広範囲で河川が氾濫する状況となっている。アメリカではイエローストーン国立公園が豪雨の被害で初めて閉鎖される事態となり、フランスではかつてないほどの大きさの雹が広い地域で観測される。農作物だけでなく、家屋や自動車にも甚大な被害が出ている様子である。

パニック映画なら冒頭30分までに起きる世界各地の異変が、気候変動の結果、ついに現出しているのである。もう何度も言及していることだが、『デイ・アフター・トゥモロー』そのまま、大西洋南北熱塩循環の停滞のような現象が気候の恒常性に不可逆的な打撃を与える怖れさえ、もはやフィクションではなく、この状況は沈静化の見通しも立たないまま果てしなく続く。

Keychron K2

さきの週末に機会あって、うちの坊やのPC環境を視察したところ、彼も自ら沼に嵌まりに行くタイプなので韓国メーカーのキーボードを念入りにカスタマイズして使っており、そのキータッチがなかなかよかったものだから、こちらも負けじとKeychronのK2を導入してみる。赤軸を選んだのは好みによるものだが、US配列というのが新機軸で、これまで好んでJISキーボードを使ってきた身からするとかなり大幅な方針の変更なのである。大きく異なるのは日本語入力の切り替えだけれど、愛用しているかわせみ3ではCtrl+Shift+Jでひらがな入力に切り替えるといった設定がかなり細かく出来るので、特に問題はないみたい。

K2は高いコストパフォーマンスで評価はもとより高いけれど、RGBバックライト搭載のモデルはアルミのフレームで質感もいい。高さがあるのでパームレストは必要だと思うけれど、手を抜いたところがない造作でシンプルなデザインは美しく、実質的な意味はないRGBのバックライトもアクセントとしては機能している。全体になかなかいい仕事をしていると思うのである。そのうち、キートップを交換に手を染めそうなくらい気に入っている。

SPYxFAMILY

このところ夕食を食べるときに『SPYxFAMILY』をコツコツ観ていたのだけれど、とうとう配信最新話の第11回に追いついてしまう。原作のマンガも読んだことはないので、どういう話かも知らなかったのだけれど、キャラクターへの依存の大きな話は害もなく確かに面白い。アーニャの顔芸によって喚起されるマンガ固有の面白さが好きである。

このところ原発の国家責任、同性婚、入管問題などで、司法の硬直と異常を浮き彫りにするケースが目立っている。積み重ねてきた法理が、保守傾向のある政権勢力におもねたような判断を導くのであれば結局のところシステムの不全によってこの国は衰退する。そこに腐敗があるのなら、それこそ真正の腐敗であって救いがない。どういう国を目指すのかという政治の意志の再確認なくして、これを変えていくことはできないだろう。

スプリガン

NETFLIXで配信の始まった『スプリガン』を観る。はるか昔、『少年サンデー』で連載を読んだ覚えがあるが、その時は朝日ソノラマで出ていた菊地秀行のトレジャーハンターシリーズの影響を強く感じていたことも思い出す。八頭大は高校生の設定だったが、こちらの主人公は16歳の設定だそうである。この厨二設定は今の時代にかえって新鮮ということであろうか。

『鎌倉殿の13人』は源頼朝の退場を予感させる第24話。もはや任侠映画と選ぶところがない展開に加えて、『極道の妻たち』までなぞる脚本は確信犯の仕事であるに違いない。一介の坂東武者だったあの頃はよかったというセリフが沁みる大河の折り返し付近。範頼の最期に善児が登場し、ホラーのような修羅場で次週刮目せよという流れだが、善児の後継者が自身の手によって育てられるという展開があるそうだから、その女児は両親を殺されたあの子供だろうか。いやはや。予告で大泉洋に「死ぬかと思った」というセリフを吐かせているところまでが今週のハイライトで、もちろん来週を楽しみにしないわけにはいかない。

引っ越し

娘夫婦の引っ越しの手伝いで横浜まで。手伝いといっても二匹いる猫たちのお世話で、我々は一体どうなってしまうのかと毛布に顔を埋め現実否認の状態にある箱入り息子たちの輸送が主なミッションとなる。猫は家につくというが、新居にとうとう慣れるまで頑固な警戒モードが続くであろう。子猫の時に新幹線にも乗ったことがある貫禄はまるで窺えないのだけれど、成長が警戒心をもたらすのは、どのような機序によるものなのだろうか。

移動の車中で『職業としての小説家』をオーディオブックで聴いている。新作を熱心に追うことはないのだけれど、それなりに年季の入った村上春樹のファンである。題材からして、これまでにエッセイで書かれていた個人史的事件の内容が多く重なっているけれど、それらをよく知っているのは、つまりかつて読んでよく憶えているということで、そのこと自体が、象った文章の力を証明している。普通は忘れていると思うのである。

そして、表象文字を含む日本語の読書体験はオーディオだけだと、かなり異なる気がするのだけれど、著者の作品は案外フィットするのではなかろうか。オーディオブック化される小説作品も増えてきている様子なので聴いてみることにする。

時差

このところヨーロッパとの会議がよくあって、それはいいのだが1時間の予定が必ず紛糾するので長引き、会議が終わって日本側のラップアップも揉めるので、帰りの時間が遅くなることが増えている。早寝早起きは数少ない美徳出会って、だいたい18時までには帰路に着きたいし、こんな日が週に1-2回あるだけで調子が出ない。だからヨーロッパとは仕事ができないのである。リモートワークの隆盛で働く場所を選ばないことになっても、非同期で解決できないアジェンダがある限り、タイムゾーンは引き続き人間活動を制約することになるだろう。眠い。