Audible

少し前にKindle Unlimitedのキャンペーンに参加したばかりだけれど、Audibleでも無料期間の提供があったので、これに再び参加してみる。Audibleはときどきアクティベートしてみるのだけれど、サブスクリプション形態が変わって「聴き放題」と「買い切り」のハイブリッドになってからは初めての試用となる。本国では月に1個付与されるコインを使った課金が維持されているところをみると、日本でのオーディオブックの普及には苦戦しているみたい。

1冊を聴き終えるのに16時間とか表示されるコンテンツの聴き放題には、既に消費の実態的な意味はなく、聴くことが出来る権利を留保するためのサービスになるということだろう。そもそも朗読文化の欠如に起因して、コンテンツが少ないという問題がある以上、苦戦は続くのではなかろうか。

ソロ

この日、BTSがメンバーのソロ活動を本格化することが伝えられ、活動休止のニュースとその否定が錯綜する。所属するビック・ヒット・エンターテインメントの株価にももちろん甚大な影響のあるニュースなので、その解釈も玉虫色になろうというものだが、このあたり、関連するWikiページの更新も現時点ではされておらず、万事抑制的で規律正しいARMYの活動に感銘を受ける。いや、Wiki更新をARMYが担当しているかは知らないけれど、情報の解釈で荒れることが少ないメカニズムを正しく理解するというのは結構、重要なのではなかろうか。とはいえ、メンバーの本音は少し休みたいというところにあるのは相違ないだろう。

引き続きWordleをやっている。気がつくとTwitterのフィードに流れてくるものも少なくなっているような気がしたのだけれど、日本での関心は急速に立ち上がり同じく退けていった様子があるとして、まだまだ人気はあるみたい。こちらも設定済みのタスクはかなり根気よく続ける方である。

4K

この日、ワクチンの効果の減退でCOVID-19の感染はこの夏に再び大きな問題になる恐れがあるという認識が日米の当局によって示される。この時期の一致は示し合わせたものではないだろうから、専門家の認識は概ねそのあたりに収束してきているということだろう。BA.4やBA.5といったオミクロン変異株の比率も上昇しつつあるなかで、やっていることはマスクと入国規制の緩和なので一応、警告はしたという予防線のつもりなのかも知れない。

ネットワークの光回線化にともなってテレビも光ファイバーになったので、受像機を4Kに換えてみる。BS4Kで観る『鎌倉殿の13人』は格別なものであり、ほとんどその目的だけの買い替えといってもいいのだけれど、これは正解。

平文

さきの工事で自宅のネットワーク環境が刷新されたので、アカウントの設定状況を確認したのだけれど、加入者IDで新規設定する手順はいいとして、そのパスワードがメールの平文で送られてきて驚く。2要素認証のワンタイムパスワードではなく、自ら設定した20桁記号入りのパスワードがアカウントそのものと一緒に届く経験はさすがに初めてで、かつてインターネットサービス事業者としてブロードバンドを先駆けたはずの地元業者の行く末を改めて心配する。

インフラは大手の通信会社が提供するとして、窓口となる業者は設備の敷設と日常的なサービスを担当するビジネスモデルらしいのだが、そのサービスの実態はひょっとしたら電話ベースの活動なのである。グローバルなデジタルトランスフォーメーションの流れから取り残されたローカルのデジタル化を担っているのは、そうした電話出張サポートなのかも知れないのだが、その生息域は急速に減少するであろう。

成長著しい金剛

『鎌倉殿の13人』第23話は後世に曾我兄弟の仇討ちとして知られることになる富士の巻狩りでの工藤祐経横死の顛末が語られる。三谷幸喜の脚本は、これを鎌倉殿に対する謀反とその揉み消しとして語り、この後の粛清の流れを予感させ、ドラマチックに盛り上げる。うまい。

そして義時の長男は「成長著しい金剛」というキャプションとともにストップモーションで登場し、今週から坂口健太郎が演じることになる。先週は鶴丸を庇う健気な姿をみせ、二人して父に抱き抱えられて万人の涙を誘った金剛である。この強行突破には、ひとしきり笑う。

ある用務員

『ある用務員』を観る。高校の用務員として働く男が、実はヤクザだった父を殺され殺し屋として育てられた経歴をもっていて、組織の跡目争いをめぐる殺し合いに巻き込まれるという福士誠治主演のアクション映画。『ひらいて』の芋生悠が出演していて、前野朋哉がラスボスというあたりが見どころ。

ストーリーはあるとして、高校を舞台にした異常者揃いの暗殺者集団との無情な殺し合いを撮りたかっただけなのではないかという気がするし、まぁ、それだけといえばそれだけ。主人公の福士誠治はほぼ作業服姿なのだけれど、新品のそれが馴染んでいないあたりに本作の印象が集約されている。ラストのくだりは不自然なほどに長いのだが、ことに芋生悠が歩み去る遠景は違和感が大きすぎて、演出としてはいろいろダメなのではなかろうか。

ククルス・ドアンの島

安彦良和が監督としてファーストガンダムのエピソードをリメイクした『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』が公開になって、その作画のクオリティの高さが話題になっているみたい。何しろ、県内では長野市まで行かないと公開している劇場がないので、おいそれと駆けつけるというわけには行かないのだが、オンラインで冒頭10分が公開されているのでこれを観てしまう。なるほど、アムロ=レイは安彦良和の筆致のアムロなのだ。

そして、もととなっている『機動戦士ガンダム』第15話の『ククルス・ドアンの島』を観る。オリジナルエピソードはその作画の完成度の低さから、作画崩壊と謗られ「捨回」とまで言われる扱いだけれど、冒頭から合体ロボとしてのガンダムを思い起こさせてくれるエピソードで、スポンサーの要求を消化せんとするつくりになっている様子もあって興味深い。コンテナ式輸送機ガンペリーからのパーツ投下と空中合体のシークエンスの直後、こんなガンダムは見たくないというリュウ=ホセイのセリフにもある通り、制作サイドの悔恨が詰まった話なのであろう。

作画がどうこうという以前、ランニングと縞パンの下着姿で徘徊する『男おいどん』風のシュールなアムロは、『うる星やつら』の諸星あたると選ぶところがないのだが、当時はあまり違和感もなく観ていたはずである。情報量の増大によって、ガンダム世界の解像度はどんどん高くなり、ふたたび観察対象となったことで、今回劇場版のアムロは別次元のリアリティを獲得したというわけだが、この再収束のプロセスはなかなか興味深い。