フレンチ・ディスパッチ

『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』を観る。いかにもという感じの長いタイトルだが、ウェス=アンダーソンの2021年の映画。相変わらずシュールなウェス=アンダーソン節だけれど、美術はとにかく手が込んでいて見応えがある。常連の俳優もひと通り出演している感じ。例によってアメリカ人らしからぬ作家性はいいのだけれど、103分がやや長く感じるのは、アクの強さが影響しているのかも知れない。結局のところどの作品でも同じことをしているような気がしなくもないが、精巧に設計され発見が多い画面である。このレイアウトと色彩設計だけでも映画らしい映画なのである。

三連休最終日。この休みにニュースを見ると、日本各地で3年ぶりのイベントが行われていたようだけれど、大して状況が変わらないのに年季明けみたいな感じになっているのは、実に人の世という気がする。これもまた適応の一形態だろうけれど、いろいろに目を瞑っているだけだということは理解しておく必要がある。

身代わり

連休中日、『鎌倉殿の13人』の続きを楽しみにしていたのだけれど、この週は最終章に向けたPR回で、出演者によるトークスペシャル。脚本家はコロナ感染で出演できなくなったキャラクターの場面を書き直してもいたらしいけれど、パンデミックやオリンピックによる中断のない久方ぶりの大河ドラマが、あと3ヶ月経たぬうちに完結する。

この番組での話題では、富士の巻き狩りでの曽我兄弟の仇討ちの回で、源頼朝が比奈のもとを訪れるシーンを演じていたのが実は大泉洋ではなく小栗旬だったというエピソードに驚く。大泉洋の休養とセットの都合で代役を立てることになったようなのだが、階段を登っていく場面には背中にも漂う頼朝感があったように思うのである。何しろ、同じ時、源頼朝の身代わりとなった工藤祐経が討たれるというシーンで、当の源頼朝も代役だったという二重の構造が面白い。

ウェアウルフ・バイ・ナイト

Disyney+オリジナルの『ウェアウルフ・バイ・ナイト』を観る。マーベル・コミックス初期の作品に遡るキャラクター、ジャック=ラッセルをガエル=ガルシア・ベルナウが演じている。尺は54分で中編程度だけれど、類型的にわかりやすいキャラクターが物語を進行して、最終的には意地悪な継母が成敗されるというシンプルなストーリーなのでちょうどいい感じ。

見どころは古典的なホラー映画へのオマージュがわかりやすい画面で、キーアイテムとなるブラッドストーンだけが赤く輝くパートカラーはMCUらしくよく作り込まれている。登場するモンスター、マンシングの着ぐるみ感もいい。マーベルユニバースの常連になれば、そこそこ人気が出るのではなかろうか。

iPadのSafariでvscode.devを使ってみる。以前、少し弄ったことがあったのだけれど、同期機能をオンにするとローカルの設定に合わせて動作してくれるのはクラウドらしいメリットと見えて感心する。全てではないとしても、拡張機能まで使えるのである。GitHubのレポジトリをクローンすれば、ほとんどどこでも使えるということで、ここまで便利であれば進んで囲い込まれようということにもなろう。

部分最適

この日、国会ではCOVID-19下でのマスクの着用ルールを定めていくという政府の方針が示される。マスク規制の緩和を行おうというのである。いわゆるグローバルスタンダードに従って、なけなしの個性と優位性を手放してきたのは明治維新以来の伝統とはいえ、たまに国会を開けば業界要望の消化みたいな話ばかりと思って苦々しくみている。

ワクチンの4回目接種を受ける人数はトレンドに従って減少し、第8波による死者は第7波の数を超えてくるだろうが、あらゆる因果を無視してマスク着用の是非だけが論じられることになるだろう。同じ入力に対して異なる出力をしようというのだから、狂気の一形態のようにもみえる。戦術レベルの対応のために戦略優位を放棄しようというのであれば、もちろん愚行というほかない。

減産

この日、OPECプラスで日量200万バレルの減産が決まり、エネルキー供給をめぐる先行きの不透明性がさらに増す。リセッションの到来が不可避の状況で、需要の減少をあらかじめ織り込んだ減産が、エネルギー価格の高騰を高止まりさせるという経路で金融引き締めの効果を減殺する。この複雑系の動きがどこを目指すのかは俄かにはわからないけれど、負のフィードバックを強化するのは、どうやら間違いない。

グローバルがより高密度に繋がり、資源を無尽蔵に消費して、無限の複利成長を目指そうという世界はどうやら停止しつつある。パンデミックと戦争が、もとからあった無理を増幅して取り出したと考えれば、同じ世界を取り戻すことは後退であると考えるべきだろう。個人にとっては、ゼロサムの強化された世界で自由と平等をどのように守っていくかが幸福を決める時代になるということである。

すべて忘れてしまうから

『すべて忘れてしまうから』の第4話を観る。物語の筋があるのかないのか、よくわからないエピソードの積み重ねに実は因縁があることが判明する流れが、どこか村上春樹の小説を感じさせるのだけれど、阿部寛の間合いは固有のもので、しみじみ面白い。ゲストアーチストはミツメで、制作はやはりインディー志向なのだが、その雰囲気がいい感じ。

この日、本邦の首相が自身の息子を公設の首相秘書官に起用するという話が聞こえてくる。非常にわかりやすい縁故主義の表れであり、わかりにくい「新しい資本主義」は結局のところ縁故資本主義の新たなかたちであったかと腑に落ちる。財閥を中心とした資本の蓄積というより、民主主義の制度どころかカルトまで利用した世襲と人的なつながりによって国家の蓄積を喰いものにしようというのがこの Crony Capitalism の実相で、語義本来のイメージで、徒党による経済支配は既に完成しているのではなかろうか。

効率的な資源配分を阻害し、経済格差を助長するという特徴は現在の日本の姿と矛盾せず、分断が崩壊をもたらさないのであれば、国民は長く苦しむことになるだろう。ひょっとするとさして取り柄のない財閥の再形成に向かおうというのが、この国の現在地ということになる。

オリバーな犬 第6話

『オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ』の第6話を観る。前シリーズと異なり、これまでのいろいろに一応の解決がついているので、最終話ということになるのだろうけれど、当初からそうであるように物語としてはかなり自由なので、いつかまたということもあるかもしれない。そもそも、ここまで広げてきた話をどのように収拾するのかという興味があったけれど、かねて予感のあった通り、メタな次元の語りに転調して自作自演の顛末をきちんとみせたことには感心したのである。最終章を舞台にする流れは秀逸で、『御先祖様万万歳!』を思い出す。

永瀬正敏を濱マイクにしてしまうのは、少々やりすぎだとして。

この日、北朝鮮の短距離弾道弾が青森直上を通過して太平洋に墜ちる。国民保護に関する情報、いわゆるJアラートが東京の島嶼部でも鳴り響いたということだけれど、もちろん不必要かつ想定外の警報で、危機対応の実力を意図しない方向で露呈したことになる。外部に敵をつくるというのは独裁的政権の常套手段とはいえ、レベルの低さが知れる振る舞いは逆効果というものではあるまいか。