法人

以前、ちょっと書いたような気もするのだけれど、ゆえあってSurface Pro用の英語配列キーボードを探し、その時はうまく探せなかったのだけれど、Microsoftの法人用と称するSurface Storeにはこれが販売されていて、実は法人でなくても購入できるみたい。大人の事情というのは、とかくややこしいものである。

910hPa

最近発生した台風2号は、どうやら日本には向かってこないようだけれど、台風の目がくっきりとした猛烈な勢力でそのままグアム島に上陸するみたい。島そのものが小さいから、いかに南の海とはいえ直撃というのもあまりないのではなかろうかと思うのだけれど、今回は島の直上をあっさりと通過するコースで、現在の中心気圧は910hPaというから、いろいろと大変なのである。

地球全体では局地的な大雨もたびたびで、イタリアで大きな被害を出したばかり。いわゆる地球温暖化によって気候変動の振幅は大きくなり、災害も起きるだろうというのが1.5度シナリオの見立てだけれど、どうやらその通りのことが起きている。

専横

ヒロシマで行われたサミットは、ちゃっかりと核抑止の必要を肯定し、あたかも平和志向の宣言であるかと思わせつつパワーゲームによる世界観を補強する。NHKのニュースは総動員でこれを盛り上げ、多国間の防衛協力を積極的に取り上げて、ひとつひとつタガを外していく。どさくさに紛れてウクライナへの戦闘車両の提供まで約束して挙句、この勢いをかって解散総選挙を目論んでいる気配である。野党第一党を目指す維新の台頭まで視野に入れれば、専横のリヴァイアサンは、とうとうこの国の社会を制圧下に置くだろう。それを為そうとするものは、もはやその気配を隠すつもりもなく、この国の滅亡時計は残り30秒というところではあるまいか。

犬王

『犬王』を観る。湯浅政明監督、野木亜紀子脚本、キャラクター原案は松本大洋という構えであれば、もちろん秀逸であるには違いない。原作は古川日出男の『平家物語 犬王の巻』だが、地の文で「この物語は、走る、疾る。」というその小説のスピードを表現して、動きのいいアニメーションとなっている。

平家が壇ノ浦で滅び、これを滅ぼした鎌倉の幕府も滅亡した南北朝の世の中。壇ノ浦の遺物さえ、既にあらかた失われた時代に平家の譚を拾って独自の平曲を語る犬王と、その犬王を語る友魚がやがて、平家物語の正本を覚一検校に定めさせ当世の清盛とならんとした足利義満によって異譚を禁じられる。

重層の構造をもち、時間を往還する込み入った話だけれど、脚本は無理なくこれを語って何となく腑に落ちる話になっている。『重盛』『腕塚』『鯨』『竜中将』と四つもの演目をロックミュージカル風に表現し切ったのは演出的にも偉業というべきだが、壇ノ浦で勝利を占った話を題材にした『鯨』をイルカではなく大型の鯨として表現しなければならなかったのは、ちょっと面白い。当世に鯨といえばクジラであるのは仕方がないというものだろう。

キングダム2 遥かなる大地へ

『キングダム2 遥かなる大地へ』を観る。佐藤信介監督による2019年の『キングダム』の続編。前作には長澤まさみが出演していて、それなりにいろいろある物語でわりあい楽しめた記憶がある。大沢たかおの王騎将軍とあわせて、本郷奏多の悪役ぶりがよかったけれど、この続編については何だか見どころが少ない感じ。平原での戦いが主な話なのだけれど、その通り起伏に乏しく、ただ顔を出しているだけのレギュラー陣もちょっと間が抜けて見える。トウこと山本千尋が清野菜名の回想のなかに出演しているけれど、アクションはなし。なんだか、全体に勿体ない感じなのである。体裁としては『キングダム3』に続く話の展開だけれど、楽しみは大沢たかおの「ンフッ」くらいといえば心細い。

ケイコ 目を澄ませて

『ケイコ 目を澄ませて』を観る。2022年の収穫との呼び声高く、岸井ゆきのが多くの映画賞を受賞した映画。耳は聴こえないけれどプロボクサーとなった小笠原恵子選手の自伝に着想を得ているという話だけれど、三宅唱監督は16mmフィルムを使って撮影を行い、映画の歴史を遡るような画面を作っており、まず映像に見応えがある。時に無声映画のようであり、時には字幕を使い、ある場面は手話にあえて字幕をつけず、音とセリフがあることが前提ではない物語が進行する。アナログ撮影の難しさはあったはずだが、であればこそ画面は美しく味わいがある。

マスクによっていろいろなことが断絶された2020年12月の状況と、主人公が聾者であるという設定をうまく使って、社会や他者との関わりを考えることになるエピソードが幾重にも織り込まれている。ボクシングは主要な題材ではあるけれど、生じている関係性を前面に描く映画で、その手並みは素晴らしい。主人公に職務質問をしてきた警察官が、耳が聴こえないことを知ると試合で顔を腫らしているのも見て見ぬふりで歩み去る河川敷のシーンには、思わず驚きの声が出たものである。これは間違いなく、今の時代の映画だ。

冒頭近くから、岸井ゆきのがコンビネーション練習をする場面が何回かあるけれど、この小河ケイコがボクサーにしか見えず、三浦友和が会長を務める荒川拳闘会が失われていく場所にしか見えず、終盤にかけての感情曲線の描き方も実に立派な仕事になっている。人生は深く長い川という言葉を視覚化したようなエンドロールのラスト、微かに被せた縄跳びの音に至るまで、これはよく出来ているというほかない。

リヴァイアサン

『自由の命運』を読んでいると、国家と社会のせめぎ合いが作る、ごく狭い回廊に位置する社会だけが自由の果実を享受することができるという枠組みに首肯することも度々だが、実に豊富に挙げられた失敗国家の事例は、ひょっとすると日本がそうであるかもしれない状況をよく説明する。そして政治の様子をみるにつけ、専横と不在の悪い側面を両取りして、国家のふりをした何ものかに転落しつつあるということではなかろうか。

結局のところその凋落は占領統治の終了に端を発し、統治者の影が薄れるにつれ張り子の国家の実際が露出したに過ぎないということであれば、南米やアフリカの苦境とさして変わらず、何より経済成長が存在しないという事実がこれに符合して心胆を寒からしめる。これはまぁ、そういうことである。