『窓際のスパイ』のシーズン3が配信開始となり早速、これを観る。ミック=ヘロンの原作だと『放たれた虎』のエピソードで、物語はイスタンブールから始まる。エスピオナージュは、こうでなければならないという雰囲気の良さで今シーズンも楽しみ。ゲイリー=オールドマンの薄汚さには確実に磨きがかかり、同時に凄腕のスパイのオーラを纏う。しかも突き出た腹は本物なのだ。スラウハウスのスパイたちも、それなりに腕の立つ様子になっていて、いい感じ。
Month: November 2023
超新星紀元
劉慈欣『超新星紀元』を読む。今から20年前、『三体』よりも前に書かれた作品で、劉慈欣の濃いところが詰まっている感じ。超新星の爆発により地球を襲ったエネルギーが大人を死滅させ、子供たちだけの世界が到来するというアイディアを描く筆致はこの作家ならではの念入りなもので感心する。その構築への執念はどこから来るのだろうか。後年よりも中国共産党のシステムを力強く礼賛する雰囲気があって、世界観そのものがSFっぽい。中国SFが面白いのは、このあたりにも理由がある。
流行
このところ中国では子供の肺炎感染が急増しているというニュースをよくみるけれど、もちろん制約なしのインバウンド急増によってこの事態は国内にも速やかに伝播するに違いないのである。インフルエンザ、RSウィルス、プール熱とあらゆる感染症が流行する状況を、パンデミックがもたらした免疫負債の反動的な発現と看做していいのか、よくわからない時間帯に世界はあるが、何もかもがこれまで観察されていなかったような状況ではあって、つまり既に何が起きてもおかしくないことになっている。この時点では正常性バイアスを排するための、意識的な工夫が必要だろう。
Heptabase
メモツールの遍歴は終わり(たぶん一時的に)最近ではHeptabaseのワークフローに落ち着いているのだけれど、このソフトサービスもまだまだ開発途上であって、このところはTask管理周りの機能が次々と追加され、使い勝手は日々よくなる感じ。とはいえ、先ほど初期開発のフェーズを過ぎて、無料のお試し期間が設定されたので導入しやすくもなっていると思うにもかかわらず、どうしてかあまり評判を聞かない。
ブームになる必要はないので、高速の改善ペースを維持したまま、ビジネスとしても持続可能性を担保できるくらいの成長はして欲しいものである。一方で、優れたサービスが長期にわたりそのクオリティを維持することの難しさを考えると、結局は独自構造のデータベースに依存することは得策ではないのではないかという気分もまた。
半蔵
『どうする家康』は12月を前に、徳川を脅かす秀頼の才覚と方広寺鐘銘事件を描く回。当たり前だけれど、これまでの大河ドラマとは異なる文脈で話はすすみ、こうなると『真田丸』の配信が停止されたままなのは残念至極。『鎌倉殿の13人』は再開されたのに、『真田丸』も『いだてん』も止まったままというのはいったい、どういう判断によるものなのか。それはそうと、山田孝之が演じていた服部半蔵正成はフェードアウトしたきり、この時点では病没しているみたいなのだけれど、大坂の陣にはやがて改易されることになる三代目服部半蔵が同じ山田孝之で登場するエピソードが欲しい。
この前日、ガザで発効した停戦にあわせ人質の交換の1回目が行われる。まさに交換ということで、イスラエルが捕らえていた人質が釈放されたというのだが、これはいったいどういう経緯によって囚われた人たちなのか。イスラエルの所業についての説明はあまりにも少ない。
20年
この日、八ヶ岳にも雪が被ろうかという様子があって、かねて予約のタイヤ交換に出掛けてスタッドレスタイヤを装備する。帰りがけに洗車もして、既に年さえ越せそうな感じ。夜は久しぶり、20年前のプロジェクトの飲み会で上諏訪周辺の中華。さすがに皆、歳をとったけれど、変わらぬ部分は変わらずあって楽しく紹興酒を飲む。昔話は害がなくていいのだが、すぐに名前が出てこなくなっている人たちの会話なので、集団知によってそれを思い出すクイズみたいになっている。
ゴジラ-1.0
『ゴジラ-1.0』を観る。小笠原諸島の大戸島から始まるゴジラ70周年記念作品。呉爾羅の前触れとして、深海魚が浮かび上がってくるという不気味な描写はいいのだけれど、特攻機の着陸という話の発端が物語を支配する情緒を予告してやや不安な感じがしなくもない。山崎貴監督の脚本はややトリッキーにその予想を回避するのだけれど、まぁ、どうなることかと思ったものである。
そういえば、ゴジラは戦争で命を落とした人の怨念の集合体という設定の過去作もあったけれど、本作は1954年版に遡りその『ゴジラ』に色濃くあった戦争の影の、より直接的な表現を目指したには違いなく、それはある程度、成功しているようだ。重巡洋艦の高雄が海中からの光線によって爆沈するあたりにも初代ゴジラのイメージがあって、やりたいことは明らかなのである。そう考えるとドラマパートも必要であるには違いなく、子役の泣き声さえオマージュになっていると思う。上陸にあっては、国会議事堂まで含めて初代ゴジラが破壊するはずのあたりをあらかた焼き尽くしてこれを先取りしているのが興味深い。この後の時間軸に1954年版ゴジラの出番はなく、ワダツミ作戦がオキシジェンデストロイヤーのイメージとなったのも、それを宣言しているようである。