アバターについて考えてみた

sky前日の記事にめずらしくコメントをもらったので妄想してみた。
もちろん、『アバター』を物語構造で考えれば、先達のイマジネーションの上に立つモノであって、いくぶんニューエイジがかっているとはいえ例えば『風の谷のナウシカ』の影響を大きくみることができる。もちろん、このあたりの造形はとても屹立する巨人といえたようなものではない。そもそも批評という観点からは、あえて取り上げるような内容でもない。
言うような『アバター』の暴力性とは、他愛のないストーリーにあるのではなく、画面を創造する技術の非対称性にこそあるのではないかというのが立場である。つまり、「物語」はその生来の機能として観客の脳内に新たな物語を喚起するが、その新たな物語を表現する技術を我々がもたないということを圧倒的に見せつけ、観客を永遠に観客の立場に留め置こうというのが『アバター』なのではないかということだ。
『スターウォーズ』からこっち、村上春樹が「高度資本主義社会」とたどたどしく表現した昔から、実はこの構造は明確になっており、本邦では『スターウォーズ』を模した『宇宙からのメッセージ』という果敢な表現活動が、当然の帰結として世間の失笑を買った。その表現技術の差はまったく痛々しいまでに大きく。
『スターウォーズ』はスペースオペラという伝統的な物語世界を出自としながら、SFXという新技術によって『スターウォーズ』以外の『スターウォーズ』的なものを追随者に貶め商業的に成功した。物語世界の「ナイキ」であり、ブランドシステムを映画に持ち込んだという意味でもエポックメイキングであって、『スターウォーズ』に触発されながら表現の行き場を失った脳内妄想は多くのコスプレイヤーを生み出した。実に、アメリカ資本主義的な二極化の構図であり、このような世界では富める者がますます富む。ILMスタジオはそのための装置である。
話を『アバター』に戻せば、『御先祖様万々歳』がその文脈の果てに『四畳半神話大系』を生み出し(いやたぶん。森見登美彦は押井守大好きだと思う)その小説と『迷宮物件』が合流してアニメに回帰するというのが物語の力だとして、『アバター』は徹頭徹尾その超絶技巧を武器に、制作と観客の二極を固定しようという大資本の論理を背景に屹立する。物語が新たな物語を喚起するという、物語本来の力は、つまり消費者たる観客が競合に変貌しうるという大資本にとっての悪夢であり、圧倒的な物量でこれを封じようというのが3D映画技術なのである。これを真似て表現するための絵筆は未だなく、その楽園では観客は永遠の消費者となる。『アバター』制作の終盤において、ILMがWeta Digitalのサポートとして介入したという話も理の当然。
対するに本邦は、伝統的に職人の文化であり、企業も垂直統合が得意であって、言いたくないが物量戦にはとんと弱い。そもそも3Dどころか声優交代の事態にあってもキャラクタが同定されるという共同体的な大らかさをもったアニメ文化が王道で、言うまでもなく多くの同人カルチャーがこれに従う一億総クリエイター社会であればこそ、同じ資本主義といっても、まぁ、凄みが違う。その牧歌社会がグローバリゼーションの荒波に曝されようというのがことの顛末であるとすれば、尊皇攘夷の意見が出たところで全く不思議はなく、不謹慎ながら非対称戦争を毅然と戦い抜こうというゲリラの志にも近い。
その先行きにも希望がないわけではない。デジタルの世界では生産性のレバレッジが圧倒的にものを言う。戦術はいくつか考えられるが、物語制作におけるクラウドソーシングもそのひとつ。映像データをみんなで持ち寄って映画に仕立てるプラットフォームを考案すればよい。それが壮大な宇宙船の3Dデータであれ、その部分だけならこだわりの一品を作り出してしまうというのが職人の技である。スポンサーが出現する可能性すらある。トヨタ自動車が提供するトヨタ市のデータはいくつもの映画の舞台となるだろう。出演者はオーディションによって決まるはずである。つまり、デジタルのことである以上、参加者は自分の「アバター」を競うことになるのだが。