『ハート・ロッカー 』を観る。キャスリン=ビグローの久しぶりの監督作で、言わずと知れたアカデミー賞六冠の作品だが、これまでの経歴では『ハートブルー』にいちばん近いつくりであると思われ、何しろ男臭い。しかしながら、あの映画が犯罪捜査という建て付けのなかで探求の構造をもっていたのに対して、イラク駐留軍の活動はその戦略的な達成点がよくわからないという世界的合意を背景に、この映画からは探求はおろか抽象的な目的の一切が排除されている。
物語にはいくつかのピークがあるのだが、印象に残るのは砂漠の狙撃戦であり、対物ライフルによる狙撃合戦という設定自体の斬新さもさることながら、荒涼とした砂漠で極大距離を隔てて見えない敵と対峙するという関係性、さらにいつ終わるともしれない長い待機という状況が、この戦争そのものを端的に構造化してみせている。このヤマ場においても、どこから来てどこへ行くのか、という文脈は語られておらず、明確に構築された結構が目的の不在を明らかにするということにもまた成功しており、これがかなりよく練られた脚本であることは間違いない。そのことが、ともするとドキュメンタリー志向であるかのような印象を与えかねないにして、アプローチは全く異なると考えなければならない。つまり、現実の写しをとってドキュメンタリー風の映画を作ったのではなく、虚構において目的性を排除していったら現実のようになってしまったということである。構築の手さばきは全く素晴らしいが、その意味するところは斯様に恐ろしい。
冒頭、war is a drugというクリス=ヘッジスの言葉が引用されており、この映画が無間地獄の構造をもっていることが予告されている。ベトナム以降の戦争映画にもいくつか同様のテーマをもった作品があるが、そうはいっても背景にあった大義、対立構造、戦略目標といった要素は本作においては取り除かれており、まがりなりにも関係が描かれるのは小隊の3名と軍医だけで、登場する上官に至っては異様に空疎な言葉を吐くだけの存在とされている。そもそも爆弾処理自体、主人公のワンマンプレーで成立する作業であって、つまりこの戦争には幾多の映画のテーマとなってきたbrotherhoodすら存在せず、そのことは意識的に描かれている。
さまざまに排除を重ねるこの131分において、しかし書き込み自体は濃密なものである。後半、主人公にはある少年の安否を確認するという動機が与えられるのだが、その展開は悪夢めいており、そもそも事態の進行はミスコミュニケーションとパーセプションギャップの上に成立していて、この危うい世界ではどんな偶発的戦闘も起こりかねないと知れる。続くクライマックスにおいて、闇の奥へ向かう小隊が巻き込まれる戦闘自体、いったい何が起きたのかわからないという描かれ方で、しかしそもそも指揮官の判断が悪いから兵隊が割を食うという身も蓋もない結論であり、これもまた戦争全体の構造をエピソードとしてなぞるというつくりであって、一貫している。
行く先のよくわからない戦争を現場で担っているのは兵隊に他ならず、戦争という動的平衡状態は補充される新兵、身体あるいは精神を壊して脱落する兵士、脳味噌のない上層部で成り立っている。運良くそのどちらともならず、戦場での活動に一定の意味を見いだす希少種があるとして、結局のところそれは自滅遺伝子を内蔵しているということであり、物語の構造が示すように死に至る円環から逃れることはできない。