西呑屋あるじが久しぶりに寄越したメールは高校の同級生の訃報を知らせる内容だった。この20数年のうちに、何人かの友人が鬼籍に入っているのだが、いつも伝えてくるのはあるじのような気がする。意外に人付き合いのある人間なのだ。
温室育ちと言われたあの日々は、葛藤があるとして多くは個人に属するものだったし、記憶に残る幾つかの事件の周辺には影もなく、なるほど入学試験というものは目利きであるということを証明する側の、天晴れな人たちのひとりだったので、もちろん、多くの善きことを届けたに違いないから、その生は彼をよく知る人たちに記憶されるだろう。
中学、高校の6年間を私立学校の狭い交わりのなかで過ごしたにしては、メラノーマで亡くなった彼のことを思い出すよすががあまりなくて、そのように怠惰な毎日のことであるから、いずれその死のことすら忘れてしまうのではないかと怯え、日記本来の機能として記しておこうと考えたのである。
よく笑う人だった。紛れもなく善い人であった。生と地続きに死はあって、帳尻を引き合わせようという考慮はされない。しかし記憶の残る限り、私たちは同じ下りの船に乗り合わせていると感じられることだろう。