『シェルター』を観る。ジュリアン=ムーアが主演の超常現象ものというだけで、おいおい大丈夫かと身構えてしまうのも、何度となく言及している『フォーガットン』のせい。善良な夫を亡くして以来、信仰に迷い、超常的な出来事を頑なに否定する主人公の精神分析医が、ある患者を通して土着的な呪いに巻き込まれるという感じの筋書きで、訳の判らない因縁に理不尽なかたちで襲われるというあたりは『スケルトン・キー』を思い出したのだが、実は後味の悪い恐ろしさはよく似ており、ホラーとしては案外、悪くない雰囲気である。ショッカーの音響があまりにも大きすぎるにして。
アメリカの恐怖の原型には、顔貌を見知った人間の中身が突然、全く違ったものになってしまうという類型があると思うのだが、その正系に連なるストーリーであり、肉体と魂を独立したシロモノとして捉えているアメリカ人の文化人類学的心象が窺えてなかなか面白い。
本邦にも狐憑きの伝統があるのだが、これはどちらかといえば血脈を忌む種類の恐怖であって、入れ替わりとはだいぶ異なる。恐怖は不安の映し鏡である。ある日、自分の肉体から魂が「弾き飛ばされて」しまうという心配を、おそらくはキリスト教的な理解の裏返しとして抱えているわけで、こうした不定性が反作用としての一神を強化してきたと考えれば、その構造は実に興味深い。しかも、呪いを引き起こすのが「土着信仰」であるあたりが、この類型を新大陸に固有のものとしており、同じキリスト教文化圏とはいってもヨーロッパでは日本に近い「血脈」系の恐怖に置き換わっていると思えば、アメリカの寄る辺のなさが抱えなければならない不安定さの表出とみえて一層、興味深いわけである。なるほど。