PTAというものがあって、この季節になると来年度の地区役員を選ばなければならないだとか、場合によってはPTA会長を選出しなければならないという話が出てくるのだけれど、数年前に無類のくじ運で会長職を引き当てた身であるから、さすがに最近では対岸の火事である。
来年度はこの地区から会長を選ばなければならないという話になっていて、そうなるとどうにか対象者から逃れようという活動が活発になるのが世の常であり、自分はかつてあの役をやったという自己申告に、そんなことは理由にならないという怒号が錯綜して、その有様は見苦しいというほかないのだが、実際のところPTA経験者の重任が免除されるのは、多くの人に関わって欲しいという、組織の本義に基づいた設計なのではないかと思うのである。
学校や子供の教育に関わることによって、自らの見識をもまた涵養する。PTAの役という機能を果たすなかで、これまで知らなかった何かを学習する。かつて生徒であった時分の関わりと、親としての学校への関わりはもちろん全く異なるものであり、体験を通して、事前には想像もしていなかった何かを学ぶ。そうした学習済みの個体を量産するために設計された組織がPTAなのであり、今にして思えばこれはなかなかよく出来た仕組みである。
こうした学習装置に組み込まれるにあたって、あらかじめ必要とされるのは学びの姿勢そのものである。つまり何だかよく判らないけれど、とにかくやってみようという精神的な態度によって臨むべきものなのである。であれば、子供には勉強をするようにと叱責する一方で、これを回避しようというのは自家撞着に他ならず、四の五の言わずにやってみろと、きっとこの経験は役に立つからと、経験者ならではの余裕で思うわけだが、もちろん勉強と同じく、役に立ったと思うかどうかは本人の心構え次第であって、責任は負わない。