ポール=グリーングラスがボーン・シリーズ以降で描いてきた、あるいは007シリーズが描いてきたゼロ年代のアクションは、いわゆる殺陣をひとつの「流れ」として演出することに心を砕いてきたように見える。
結果としてその動きはパルクール風となるのだが、重要なのは動作に入る前の情況分析を明示的に描くことであり、つまり取り巻く状況を一瞬にして察知する静の段階をきちんと作り、ためらいなく動に移行した後では寸分の遅滞もないという流れを演出することによって、全体として今までにない印象の画面を作り出してきた。
静と動をひとつのものとして考えるというのは、もちろん陰陽五行説に通じる考え方であって、近年の優れたアクション映画が東洋的にストイックな印象を発しているのも、こうした演出思想を反映して、細部に神が宿っているからなのである。
というような一方的な見方も、完全な与太というわけではなくて、たとえば『ボーン・アルティメイタム』のあのラストが、全体の基調となっている静から動のモチーフを象徴しているといえば、賛同する向きも多いのではないか。
ひるがえって『ソルト』のラストシーンである。ここにあるのは古典的な逃亡者の演出であって、観客の関心は無事に逃げられるのかという一点に集約されるようになっているのだが、この物語の結末がそれでよかったのかというあたりがまず問題になる。
その点を措くとしても、『ソルト』の演出が今ひとつ古風に感じられるのは、本編のアクションが多く「刺激に対する反応」の範囲で描かれているからであり、あるいは動きそのものとして描かれているからであり、これに比べればアパートの外壁を横移動(!)というヒッチコック以来の描写が入っていることの責はさほどでもない。無事に危地を切り抜けるのは同じだとして、いったん包囲されるか、動的状況を制圧しながら逃亡に成功するかというのは大きな違いであって、ジェイソン=ボーンのほうがスマートに見えるのは当然のことなのである。