『小さな命が呼ぶとき』を観る。めっきり恰幅のよくなってしまったブレンダン=フレイザーが難病の子供を二人もつ父親、ハリソン=フォードが治療薬の開発を試みる科学者の役。ジータ=アナンドによるノンフィクションをもとにしており、事実をなぞっている以上、物語としてのカタルシスはどうしてもとってつけたような印象があって多少、居心地が悪いのだが、大向こうに受け入れられる話にするにはこうした感じになるのも仕方がないというのも何だかわかる。とはいえ。
難病の治療という現実的な問題を現実的に解決する映画である以上、ソリューションとビジネスをどのように折り合わせるかという話になるのはわかるのだが、結果として感情の折り合いをどうつけるかという側面はかなり単純化されているような気がしないでもない。結局のところ、薬の効果は限定的なものであり、それだけでは救われないということを皆が知っているときに、それだけを論じているということからくる違和感は本質的な問題を提起しているとも思えるのである。ことは生の意味を与えてくれる言葉や宗教の役割に及び、本作がそれを掘り下げなかったのは意図的なものであるとも考えられ、またその責を負わせようという話ではないのだが、我々は誰もこの問いから逃れることはできない。