『キック・アス』を観る。普通の少年がスーパーヒーローを志すという話では『ミラーマンの時間』を思い出すが、筒井康隆が書いた時代よりもヒーローをめぐる今日的な課題は一層、構造的になっている。まず、主人公には葛藤というものがない。一方で、この映画が提起している問題意識は『ダークナイト』に並び、極めて同時代なものである。あるいは、『ダークナイト』と同質のテーマを扱いながら、それを先鋭化させているという読み方もできる。何しろ、本作では「救出が間に合わず」バットマンが「焼死」する。『ダークナイト』における動機の設定を思い起こせば、これはオマージュであると考えるべきであろう。
主人公のデイヴはケツを蹴るほうだか蹴られるほうだかわからないという調子で描かれているが、そこに登場するヒット・ガールは真性の暴力を体現している。この暴力性の振幅の激しさは映画の面白味そのものを生んでいるのだが、同時に、どちらかというとボランティア志向の主人公が、仇討ちが動機となるヒット・ガールと関わっているうち、いつの間にやら、成り行きで、同じ修羅場に突入するという構図を作り出している。最終的に空を飛ぶことで、スーパーヒーローとして完成した絵柄を示す一方、だがしかし実際には巻き込まれただけであるはずの主人公にまるで葛藤がないというあたりに『ダークナイト』との顕著な違いがある。バットマンでは予感であった負の連鎖が、明示されているというあたりにも着目するべきであろう。
『ダークナイト』は「悩むアメリカ」を題材としていたのだが、こちらは悩むことすらしないわけで、このあたりが同じテーマを扱いながら、より先鋭化しているという所以である。先行作品との対比のなかで、よりハードな現実というものを、シリアスに向かうのではなく描いているというあたりがすごいのであって、これは本歌取の手本というべきであろう。
『(500)日のサマー』で印象に残ったクロエ・グレース=モレッツがヒット・ガールを演じている。今後も活躍しそうな役者である。