原子力、星守る犬

西呑屋おかみが嘆くように、今このときの世論が原発の推進を支持するという調査結果には俄に信じがたいものがあるが、これは原子力というものが数十年にわたって築いてきた政治的資産の大きさの証左であるとも見える。だがしかし、マックス=ブルックスが看破したように「大衆的な支持は限りある国家資源として大切に使用しなければならない。思慮深く、けちけちと、そして投資に対して最大限の見返りが得られるように消費しなければならない」。原発推進において長期的に現在、保有する資源が蕩尽される傾向にあることは確かであろう。一方で、これまで原子力産業と結託してきた地球温暖化論には新たな方向が必要になる。
巻き返しもあるだろう。このうち、もっとも力をもつと思われるのは、経済的な側面からの論述であって、日本の地震リスクが特異的に高いというポイントを消化していないことも忘れてうかうかと納得してしまうことすらあるかもしれない。原子力工学は派生として経済社会学を抱える一大学派であって、何しろこのあたりの功利的見解の蓄積も半端ではないのである。
よく言えば分析的な立場から語るこのあたりの論が時に卑しく見えるのは、カネを論じているからというわけではもちろんなく、このことが綜合の上で語らなければならない事柄だからであって、その卑しさは欠陥を反映しているに過ぎない。
事柄の是非を綜合的に判断するということは難しいと考えられているフシがある。国民的な合意を形成するのは一層、困難であると思われる。だがしかし、実際のところ、わたしたちがやらなければならないのは事後の「ああ、よかった」という感慨から遡及的に判断することだけなのである。
そんなことで国民的合意を形成することが可能かといえば、もちろん可能であろう。『星守る犬』という漫画が何故、涙を誘うのかについて、幾千の分析が出来るが、私見を敢えて記せば、それはいのちを送るときに、「電柱の匂いを嗅がせてやればよかった」という部分、幾つもの断片から立ち上る悔恨を全体として共感することができるからだ。わたしたちは遡及的な悔恨を綜合化して共有する能力を持っている。