いろいろと寄り道をしたけれど、福井晴敏の『震災後』を漸く読み終える。もちろん東日本大震災と原発事故をそのまま題材とした小説であるにもかかわらず、DAISらしき組織の影と渥美本部長その人が登場するあたり虚構としての面白さもあって、結末にかけては良くも悪くも福井節全開であり、かなりきわどい線にあるフィクションであるにもかかわらず、商業主義的な嫌らしさが希薄なのは、とにかく「こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか」という表明が、作者自身のメッセージとして伝わるからであるには違いない。福井晴敏の小説というのは元来そういうものであり、自身もよくそれを弁えている。
この物語で採用されている未来の方向は、つまりフロンティアを目指すというあたりにあって、実はかなりアメリカナイズされた価値観とナショナリズム的な主張の狭間にある、このひとの独特の立ち位置においてよく消化されていて悪くない。問題解決ではなく課題達成のアプローチをとろうという積極的な主張は何故、このタイミングでこの小説かという必然性を説明しているともいえる。
フロンティアの有効性については、もちろんこの小説の範疇では語る建て付けにはなっていないのだが、経済が成長を前提としているからにはそれが必要だというロジックにはなっており、アメリカナイズされているというのはこのあたりの、いわば楽観的な印象なのだなと最近では思う。
資本主義経済圏が利子を採用していることは、つまり成長を前提としていることの証左であって、そのこと自体は正しいとはいえ、あらゆる固有性を飲み込み、境界を無効化して、均一化を進めながら自らの成長を実現する──グローバリゼーションに支えられた現在の経済の姿は、アナロジーとしては「癌細胞」の生長そのものと見えて、つまり、フロンティアを目指す私たちの動機は一体、これでいいのかという問いについては、おそらく今後、語られることになろう。