ナイブズ・アウト グラスオニオン

あけましておめでとうございます。

この年はものごとの決定力が市場から政府へ移る、今後の趨勢がいよいよ明らかになってくる年になるだろう。国際政治においても同様となれば、我が国の相対的な弱体化はますます進むに違いないのだが。

『ナイブズ・アウト グラスオニオン』を観る。遺産相続にかかわる屋敷ものだった第一作に比べると雰囲気はガラリと変わり、時節もパンデミックを踏まえてセレブたちの事件という設定だけれど、ギリシアを舞台にした孤島ものであり、倒叙的な解明が物語的な面白味になっているのも同じで、ミステリとして本格的な仕様となっている。評判の高かった前作の続編であることがはっきりとわかるのが、そうした背骨の部分だということが、かえって脚本の質の高さを証明してると思うのである。

その監督・脚本はかつて『BRICK』という名作をものにしたライアン=ジョンソンで、知らない間に『スターウォーズ / 最後のジェダイ』でも監督・脚本をやっているみたいだけれど、こういう脚本を書いて、監督までできる人間はそうはいないのではなかろうか。ダニエル=クレイグが演じる探偵ブノワ・ブランの同居人にヒュー=グラントが顔を出し、世界観は着々と広がっている様子なのも嬉しい。さらなるシリーズ化も期待できると思う。そして、久しぶりにケイト=ハドソンが出演している映画を観たけれど、元気そうで何より。

ホワイト・ノイズ

Netflixで『ホワイト・ノイズ』を観る。昨年末は『ドント・ルックアップ』を楽しんだ記憶があって、惹句には化学物質の流出事故を扱っているとあるから、これもやや高尚なパニック映画の類かと勝手に思って、実のところ少し楽しみにしていたのである。

だがしかし、そんなものでは全くなく、舞台は1980年代のアメリカで、ドン=デリーロのポストモダニズム小説を原作とした、かなり忠実な映像化ということみたい。諸君、ポストモダンだ。アダム=ドライバーが主人公というあたりで、ピンときてもよかったはずなのだが、見込み違いのぶんを割り引いても、これはちょっと疲れる。高い文学的素養を要求されているのだろうと思うのだが、適切に映像化されているのかも実を言ってよくわからない。いやはや。いや、何であれ、こちらの勝手な期待が悪いとして。

そんな感じで2022年も終わる。良いお年を。

2022年に観た映画のこと

パンデミックからこっち笑い飛ばすべき現実は一層、深刻となって、結局のところ『DEATH TO 2022』は配信されることなく2022年は終わる。人間界での扱いはどうあれ感染拡大の影響はその社会に澱のようにとどまり、地球温暖化は、酷暑と極寒をもたらす大規模な気候変動としてあらかじめ予想された通りに現実化し、残り時間が少ないことを知らせる。前世紀に立ち戻ったかのようなヨーロッパでの戦争が終結する気配もないまま、これから先の2023年は深刻な景気後退に陥ることがほぼ確実という時間帯にある。

この年の5月、かねて楽しみにしていた『シン・ウルトラマン』を観るために2年ぶりに映画館まで出かけ、日常が徐々に正常化に向かう気運が垣間見えたこともあったのだが。

シン・ウルトラマン

『シン・ゴジラ』と『真田丸』と『逃げるは恥だが役に立つ』はいずれも2016年の作品で、『シン・ウルトラマン』と『鎌倉殿の13人』と『エルピス -希望、あるいは災い-』によって2022年は奇跡のようなその年の再来がなったとみえなくもない。そうであれば、MVPは3作を制覇した長澤まさみ、2作において重要な役割を果たした山本耕史ということになるだろう。

空想特撮映画との銘打たれた冒頭の90秒、「禍特対」設立の経緯を『ウルトラQ』になぞらえて語る本作は「外星人」が政治的手法で浸透しようというあたりに物語上の眼目があって、しかしプーチンが昔ながらの侵略戦争をおっ始める現実に置き去りにされた感があるけれど、山本耕史のメフィラス星人という異次元の説得力によってこれは成立していたと思うのである。

ハケンアニメ!

『ハケンアニメ!』も劇場に観に行き、ここでは吉岡里帆のよさに開眼したわけである。この映画は全体にキャスティングが優れていて、特に柄本佑は原作のイメージを上書きして、これを上回る魅力を表現していたと思う。

「覇権アニメ」なるコンセプトはバトルものとしての体裁をとるための空想的な設定に過ぎないが、これを消化するための全体のリアリティが、ネットと風刺的な現実、制作現場という三つレイヤーを重ねることで立ち上がってくる映画の構造には感心した。

グレイマン

配信のオリジナル作品としてはマーク=グリーニーの小説を映画化した『グレイマン』が傑出したスケールを実現して見応えがあった。話の筋は『暗殺者グレイマン』から借りてきているところが(僅かに)あるとしても、ライアン=ゴズリングは原作のジェントリーとは全く異なるキャラクターを確立し、新たな通り名となったシックスはもしかしてジェイソン=ボーンの正系といえるのではなかろうか。

マリグナント

サイコホラージャンルの演出の方法をトリックに使い、これをフィジカルに上書きして観客を驚かせようという『マリグナント』だが、原案のジェームズ=ワンの目論見通り、あっと驚いたものである。ネタが勝負という雰囲気はあるとして、警察署を舞台にしたクライマックスには十分に舞台的な盛り上がりもあって、映画としての語り口はよく出来ていたと思うのである。

Mr. ノーバディ

ジャンル映画としては『Mr. ノーバディ』が正しい作法を示していたと思う。デレク=コルスタッドは『ジョン・ウィック』の脚本家でもあって、このところの流行りであるオールディーズをBGMに使うアクションを、最も効果的に使っている作品のひとつであろう。この続編の脚本が書かれているということだが、それは悪い癖だと思わなくもない。

その瞳に映るのは

ナチス支配下のデンマークで起きた寄宿学校への誤爆を題材にした『その瞳に映るのは』を観たのは、ウクライナのルガンスク州で学校が爆撃を受けたというニュースのすぐ後で、その共時性に震撼したのだが、偶然の一致というより、あまりにもありふれた人間の愚かさが同じ悲劇を幾たびも繰り返すに過ぎないということであろう。いうまでもなく。映画そのものは、緩急ある構成で世界の複雑さを感じさせて、たいへん見応えがある。オーソドックスだが優れた映画表現をもっていると思うのである。

窓際のスパイ

ドラマシリーズとしては、Apple TV+の『窓際のスパイ』が非常によい出来で、これまでにも何度か言及している通り、原作であるミック=ヘロンの『SLOW HORSES』と比べてもエスピオナージュとして好ましい雰囲気が漂っていると思うのである。オープニングタイトルに流れるミック=ジャガーの『Strange Game』もこれを補強する。

ウ・ヨンウ弁護士は天才肌

昨年末からの『その年、私たちは』に熱中して『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を観た以降、韓国ドラマに満足してしまったようなところがあって、このところ遠ざかっている。『ウ・ヨンウ弁護士』に匹敵する面白さがあるものというのは、いかに韓国ドラマとはいえ、やはりそうそう存在しないということなのである。続編の話もあったけれど、2024年となるようなので、かなり気長に待つ必要がある。

石子と羽男

弁護士もののドラマでは、本邦にもよい出来のものがあって、塚原組の『石子と羽男』は負けていない。ジャンルものとしての定型はあるとして、キャラが立ち、エンタメと弱者を捨て置かない生真面目さをともに内包しているあたり塚原あゆ子のドラマという感じが滲んで、作家性すら感じたものである。そして『ハケンアニメ!』と本作によって、中村倫也のよさに気づいたようなところがある。

平家物語

アニメでは『チェーンソーマン』のシーズン1も面白かったけれど、やはり『平家物語』だろう。美しく、アニメーションに期待したい演出的な企みがあり、平曲を使った場面の劇的な効果にはこの表現でしか実現できない高い格調があって、なお面白い。

『鎌倉殿の13人』と重なる時間軸を扱っていたことで物語の立体感はいや増し、パンデミックによって続く閉塞の状況で、この年の時空感覚を豊かにしてくれた創作の一角にあって大変、ありがたいものだったのである。そして羊文学による主題歌『光るとき』を繰り返し聴いた。

鎌倉殿の13人

毎週を楽しみにした時代ものの大河ドラマというのは『おんな城主 直虎』以来ではなかろうか。あれはあれで、ほとんど主役交代みたいな構成もあって展開のわからない話に面白味があったけれど、比較的に史料の豊富な北条の勃興を家族の物語として扱い、鎌倉幕府という行政システムの成立過程を通じて、第1回に登場したあの若者が、最終回で辿る末路に不自然さを感じないグラデーションで描き切ったのは、やはり大した仕事だったと思うのである。

封建制の実態がほとんど出てこない物語ながら、坂東彌十郎と片岡愛之助による家父長制が変容していくことで、ある種の歴史パターンを認識できるという仕掛けには感心したし、何しろ坂東彌十郎の時政は良かった。

そして新垣結衣の八重である。『真田丸』と『逃げ恥』を生んだ奇跡の2016年の記憶を煮詰めたようなドラマでもあって、今際の際の義時のセリフに我が意を得たりと思ったことである。

エルピス -希望、あるいは災い-

『エルピス -希望、あるいは災い-』では通常のテレビドラマでは使わない機材を投入して画面のクオリティを格段に向上させるという努力が投じられているそうである。この撮影の質は、世界標準で戦える作品とはどういうものかということを教えてくれたという点でメルクマールとなるのではなかろうか。

報道と政治、司法の腐敗に取り組もうという脚本の志はまず、いうまでもなく高く、この時代に惑う人間が、どうしたらよいのかということをさまざまに読み取ることができるドラマなのである。わからないことを肯定的に捉え、善か悪かではなく、どうありたいかを考えるということは、2023年を生きる我々にとっての指針となり得る。

あまりにも感心したので、脚本の渡辺あや、プロデューサーの佐野亜裕美、監督大根仁のインタビューも仔細に読んだのだが、宛て書きであって不思議はないほどに馴染んでいた眞栄田郷敦のキャスティングは、目力のある俳優を探し求めた末の成果であったことを知って膝を打つ。ドラマの初回で強烈に印象に残ったのは、しょうもない男の圧倒的な目力を押し出した、ふざけた存在感で、この役者を知ったことは2022年の大きな収穫のひとつだと思っているのである。

デリバリーお姉さん

『デリバリーお姉さん』を観る。2016年の単発ドラマで、NEOのつく連続ドラマ版よりも強い場末感が漂う。冒頭のエピソードのサブタイトルが「STANISLAVSKI SYSTEM」であれば劇団風にアクも強いのである。これがオンエアされてこそのTVK、そして岩井堂聖子と木竜麻生のよさ。

旅するサンドイッチ

『旅するサンドイッチ』を観る。もとはテレビ東京と高崎市のタイアップ企画によるテレビドラマみたい。劇中に高崎市長が登場して挨拶する微妙な生臭さもあるのだけれど、伊藤万理華と富田望生がキッチンカーで旅をするサンドイッチ屋でこれに寺島進と宮崎美子が演じる農家の夫婦が絡んでくる話で、まずそれなりのキャストが組まれている。伊藤万理華はいつもの感じだったとして、そこがいい。家族間のいざこざを、流れもののサンドイッチ屋が解決して去っていくという、懐かしい風来坊もののフォーマットを久しぶりにみた気がする。

この12月、戦後を貫いてきた自衛隊の専守防衛や防衛費のシーリングといった重要な原則が事実上、勝手に塗り替えられるという恐るべき事態の進展をみている。これとセットにした増税や復興財源の借りパクまで開き直ってすすめようというのは、党内右派の声を丹念に聞くことによる求心力の維持を、自身の財政規律派としてのアイデンティティを保ちながら実現しようというある意味で整合的な帰結のだろうが、大平正芳元首相のいう「楕円の理論」のバランスが崩れた結果、その回転の軌道は均衡を失って暴走しているようにしか見えない。そして何もできないはずのレイムダックが、これまでの全てを薙ぎ倒すのを、NHKは既成事実であるかのように伝えている。

ランボー ラスト・ブラッド

『ランボー ラスト・ブラッド』を観る。前作に『最後の戦場』という副題がついていたくらいだし、その原題の『Rambo』にもある種の潔さがあって、三部作から20年後の登場だとしてもシリーズの掉尾を飾るには悪くない作品だと思っていたのである。それがさらに10年経って、第1作『First Blood』を閉じる『Last Blood』だと言われれば何だか余分な話になるのではないかという予感は禁じ得ない。

その予感はちょっと斜めな感じに的中し、やはり蛇足だったという以上に怪作というべき内容に仕上がっている。社会から爪弾きにされた主人公は晩年をメキシコに程近い農場で過ごしていたのだが、我が子同然という娘が巻き込まれたトラブルをきっかけにメキシカンカルテルと命の遣り取りをすることになる。父親の農場の地下に、迷宮のような地下通路を作り続けているジョン=ランボーはベトナム戦争のトラウマで精神の均衡を崩しているというあたりの説明でいいとしても、全体のクライマックスはアクションというより、ホラーのテイストの演出に終始して、いつの間にかジャンルが遷移していて何だかびっくりする。Netflixの本作紹介に「身の毛のよだつような」というタグがついているのは、作品本位の評価だと感心したものである。本当のところ。

偽りの杯

『窓際のスパイ』を観る。シーズン2の第3話、シーズン1からSlow Horsesの一員だったミン=ハーパーが退場して、事態はじりじりと緊迫の度を深める。二つのオペレーションが並行し、どこに向かうか判然としない時間帯に、ラムだけがロシアのオーケストレーションを見抜く。リヴァー=カートライトにはやや手に余る事態が突如、出来する次回へのヒキは相変わらずうまい。

この日、イーロン=マスクがTwitterで休眠状態にある15億のアカウントを削除すると発表して、Twitter社自身による故人のアカウントの保護についてのかつての表明との整合を問われる。もちろん、亡くなってしまった人のアカウントが件の15億に含まれていることは間違いなく、それを見分けることはどんな会社にとっても不可能であろう。やむを得ない事情によって突然、中断された文脈を切り捨てる決断をすることは、いよいよサービスそのものの本質的な部分が大きく変えられていくということを意味する。